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part.1 国土と人々 part.2 国土づくりの歴史 part.3 技術の歩み
稲の登場と開田のはじまり



 朝鮮半島から九州北部に、水稲耕作と金属器の使用が伝わり、その結果誕生したのが弥生文化である。この弥生文化は、おそくとも弥生中期の中ごろまでには東北地方南部にまで達し、後期には、確実に東北地方北部にまで進んだ。青森県津軽平野の南にある垂柳遺跡(田舎館村)から出土した弥生後期に属する弥生式土器の中には、多くの籾の痕跡を残すものがあり、水田跡には弥生人の足跡が残っていた。
 弥生文化の中心をなす農耕の技術は、朝鮮南部や華中・華南地方において発達したものが一つの体系としてもたらされたものであり、モンスーン地域の北縁に位置する日本列島にもよく適応できる技術体系であった。それは、高度ではなかったが、狩猟・採集の補助という以上の重要な地位にあった。
 この原初的な稲の生産の場においても、現代と基本的に同じ形態と機能をもつ農具が使用されており、開田および耕起から収穫にいたる間の水田の管理・経営に一定の作業体系、すなわち開田、溝掘り、反転・耕起、砕土、わらの埋め込み、水の掛け引き、除草などが行われていたとみられている。
 弥生社会は、その当初から農耕社会として出発した。在来の縄文集団がそれらを受け入れるだけの進歩の段階に達していたとともに、外来の水稲農耕は急速に受容される魅力と豊かさをそなえていたのである。この外来の水稲農耕の、日本の風土の中での定着・発展が、その後の社会進歩の土台となった。



 原初の水田は、比較的大きな河川の下流部に発達した後背湿地や谷地の湿地につくられた。沖積平野では河川に沿った自然堤防の上に集落が営まれ、その周りの湿地を利用して水田がつくられたのである。弥生前期のもので、湿地にいくばくかの手を加えたものが、西日本の各地には広く存在していた。かんがい・排水などの農業土木技術が未発達の段階で、木製の鍬や鋤などの道具しかない状況では、自然の湿地しか利用できなかったのであろう。
 やがて、生産を高めようとする人々の努力は、耕地を拡大するため、内陸部の自然の湿地開発から、それまでとちがった土地の開発・利用に向けられた。弥生中期以降になると、西日本では谷地の開発により、集落は大きな河川の中流域から上流域へと広がった。また、関東地方では、関東平野の台地に切れ込んだ谷地が開発された。
 稲作には、土地の開発や用水の確保など、個人ではできないことが多く、集団的な共同作業が必要である。また、水田は個人所有の性格は明確ではなく、集団の共有であった。弥生前期の後背湿地や谷地田の湿田での耕作は、おそらく数戸から十数戸の規模の集落の人々によって行われたであろう。しかし、広大な沖積平野に開発された水田の場合には、集落程度の集団の力では、開発はもとより耕作も無理であったので、いくつかの集落が集まり、労働力を組織的に使って開発や耕作が行われ、用水の管理などには、集落間の協力関係もあったと考えられる。
 弥生期の水田の代表的なものに登呂遺跡(静岡県静岡市)がある。登呂遺跡は、広大な平野の一角にある10haたらずの水田の跡である。この水田は、中央部に用水と排水を調節できる水路が設けられ、矢板と杭の列を張り巡らして畦をつくり、50以上の長方形の区画に分けられていた。人々は、自然の土地を水田につくり変え、食糧を手に入れるようになり、定着した。このように、弥生後期には、土地を開発し、水を手に入れる用水の工事が行われた。また、鉄製の工具の普及とともに、組織的な共同作業によって水田がつくられていた。
登呂遺跡と復元住居
登呂遺跡の集落は、自然堤防の森林を切り拓いてつくられ、その東に広がる低地に水田が拓かれた。水田遺構の面積は約7.5ha。
  登呂遺跡水田遺構の木杭
登呂遺跡水田遺構の木杭




 稲作の進展によって、集落の生産力が増大するにつれて集落間に貧富の差が生じるようになり、支配関係が進行する中で、大きな集団への統合が進んだ。これらのうち、政治的に有力な集団がクニ(国)とよばれたのであろう。
 そのシンボルというべきものが、4世紀ごろ、畿内地方から瀬戸内海沿岸にかけて現れた巨大な古墳群である。これらの古墳は、前方後円墳や前方後方墳とよばれる特殊な形をしたもので、大きいもので長さ200m以上に達した。古墳の工事には、朝鮮からの多くの技術が使用されたと考えられ、渡来技術は、農業や須恵器などの土器の製作にもみられる。このような技術と労働力の組織化に裏付けられて、5世紀後半以降にみられる農業生産力の発展と社会的分業の進展は、庶民の生産条件と生活条件を高め、ひいては社会の仕組みへも大きな影響を与えた。
 大多数の人々の生活は、いぜんとして竪穴住居に住む生活であったと思われる。しかし、生活の様子も定かでないこれらの人々の、土地や自然に対する営みこそが、荒野を切り拓いて耕地とし、山間にも海辺にも集落を築き、今日の日本の最も基礎的な基盤を構築したのである。こうした基盤が整備されてはじめて次の社会、すなわち中央集権的な古代国家体制をつくる原動力になったのである。
奈良盆地に残る古墳と条里地割
奈良盆地に残る古墳と条里地割(うわなべ、こなべ古墳)
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