原始のむら

 日本列島に人類が住みついたのが十数万年前で、それから長い長い旧石器期を経て、新石器期、縄文期に入る。約1万年前のことである。縄文人は、植物採集から狩猟・漁撈、そして焼畑農耕と、多様な生産技術によってさまざまな食糧資源を開発した先駆者であり、すぐれた自然の開拓者であった。彼らは、海岸から内陸の河川流域や山岳地帯まで、日本列島の至るところにその足跡を残している。
 縄文人は、初期には移動生活を送っていたが、以後しだいに定着する。一定地域内に存在する遺跡には、住居跡を伴う定住的集落と、住居跡が発見されず短期間の限定された目的のために利用された活動拠点とがある。複数の定住的集落が、その周囲に転々と活動拠点を残しながら、河川その他の地形的単位によって区切られた一つの地域の中に存在し、それらがある一定期間の後に集落を別の場所に移動させて再び定着する。一つの集落は、4~5戸内外(平均人口30名程度)の竪穴住居が環状に分布する環状集落であった。
 弥生前期以降、集落の多くは、濠や土塁をめぐらせる、環濠集落の形態をもつようになった。土塁や柵などをめぐらせ、洪水対策や獣類からの被害防止、外敵に対する防御を意図している。集落は、水を得やすい、平野や扇状地山麓・台地の湧水地が選ばれる。この立地は水田稲作と密接に関連しており、今日の農業集落の立地とも共通している。


 集落は大小あるが小さいものは50人ぐらいが住んでいる単位集団である。何戸かで共同の高床倉庫をもち、収穫した稲を共同管理している。数棟のうち1棟が大きく、ここに集落のリーダーが住んだ。彼は世帯を統率する家長であり、小集落の居住員はこの家長世帯を核とし、兄弟や父母の世帯を合わせた複合家族集団であった。
 このほか、数百メートル四方もの大集落もみられる。それは共同体の首長が住み地域の中心となる集落で、小集落を周辺に分村しており、地域共同体といえる集落間の結びつきを保っている。分岐小集落のうち高地性のものは、『魏志倭人伝』の「倭国乱」の状況と関連があるとされ、防衛や通信連絡のため、平野部の大集落から派遣された。集落の結びつきは、水路などかんがい組織をも基礎としている。耕作は個別小集落を単位として実施しながら、水路の造成、洪水からの防御、耕地の開発などは、共同労働によってはじめて実現できたのであろう。


弥生期の環濠集落遺構
港北ニュータウン(横浜市)造成中に発掘されたもの
(港北ニュータウン坤蔵文化財調査団)