近世のむら

むらの確立

 近世の村落は、集落と耕地が小さな領域の中でセットになって「村」となった現在の形をほぼ整えていた。戦国期以降、広範な不安定耕地や荒野が克服されるに伴い、一定の村域にまとまった範囲が定まり、それが近世初頭の検地(面積を確定する)、村切(村の範囲を定める)によって固定された。こうした小さな村が7万以上も存在したとされている。
 もちろん、普通は中世以来のあるいは古代以来の村落が基本的には継続したが、近世においては、いわゆる「むらの結合」が確立したことが、村落内部での特筆すべき事実である。17世紀後半には、中世名主の私的支配下にあった用水や林野は、このころ成長し検地を通じて領主に直接登録された自立小農の共同所有になった。用水や林野は、共同労働によって維持され、共同労働負担義務が共同利用への参加の権利となっていた。村落を単位とした共同利用は、農作業に対して強い村落規制を生み出し、相互扶助と相互牽制のむら結合の基盤となった。小農経営は、この結合を媒介としてはじめて維持できたのである。それゆえ、近代以降も共同体的性格は残存するのである。


新田村落の成立

 この時代においてもう一つ特徴的なのは、新田村落の成立である。新田は耕地と集落がセットになって計画的につくり出されたために、独自の景観をもっている。代表的なものに武蔵野(東京都・埼玉県)の新田村がある。集落は街道に沿って整然と並んだ路村形態をとり、各戸の背後に短冊状の耕地および末端の平地林を配している畑作農村である。児島湾干拓地(岡山県)でも、水田で同様の形態をとっている。
 もう一つ代表的なのは砺波平野(富山県)に分布する散村である。これは加賀藩初期の新田村であるが、屋敷の周囲に自らの耕地を集中的に保有し、このまとまりが平野全体に均等にジグソーパズル状にばらまかれている。こうした村落では、一般の旧開の村落とは異なり、各戸の持つ耕地は分散していない。1枚当たりの耕地がごく狭くかつ分散している旧村の零細錯圃形態は中世以降進み、労働条件としては不利な形態であったにもかかわらず、近世初頭には著しく増加している。新田村落はこうした制約から免れており、この意味からも独特であった。


代かき (『農業全書」農事図より)


苗運び (『農業全書」農事図より)



田植え (『農業全書」農事図より)


稲刈り (『農業全書」農事図より)



農具の発達

 わが国の農業の歴史を通じて、耕耘用具の中心は、鍬であった。すでに弥生期に木製のものがみられ、耕地の開発や古墳の築造に大きな力を発揮していたが、その顕著な進歩は江戸期後半に現れた。深耕ができ、自家労力を多量に投下して小面積を耕作し単収の増加を図る小農経営に適していたからである。
 鍬の進歩の第一は、用途による分化である。これは、田の耕起専用の打鍬として備中鍬・窓鍬の類が広く各地に普及したことに典型的に現れている。備中鍬は享保のころ(1730年前後)以後各地の資料に現れ、万能・鏝能あるいは三本鍬・四本鍬と刃数によってもよばれている。牛馬耕のない地方では田の荒起こし用として大きな意味をもち、特に関東で犂耕の代用として普及したことが大蔵永常『農具便利論』(文政5=1822年)に記されている。鍬の分化は、中耕用・除草用の特殊鍬の出現(熊手や雁爪)という点にもみられる。鍬の進歩の第二は、土質による鍬の形態差が地方差として現れることで、柄と刃の角度、刃の大きさ・重さなどの異なる各種のものが出てくる。第三は、鍬全体が商品化することで、堺(大阪府)などの産地が形成される。  鍬と並んで、耕耘用具の最もポピュラーなものは鋤である。江洲鋤・京鋤・関東鋤といった構造や大きさを多少異にしたものがあり、溝掘り、うね底さらえに重宝されていた。
 脱穀用具をみると、江戸期の脱穀用具は扱箸で、大きさにより、大こきはし・こきはし・稲管の3種がある。これらはすべて竹棒の間にはさんでしごくことで脱穀するものである。脱穀は、元禄・享保のころから千歯扱によって行われるようになり、能率を著しく上昇させた。脱穀機の改良は、明治以後も農具改良の中心となり、明治末から大正初期の足踏回転脱穀機の発明を経て動力脱穀機へと発達する。
 江戸期の最も一般的な籾摺の方法は、木製の摺臼であり、土のひき臼であるから臼の出現をみた。選別では、古くより篩・箕が用いられてきたが、江戸期に入って徐々に唐箕・千石どうしが普及していった。動力籾摺機が大正期に普及するまで、これらは使われている。

近世の稲こきのようす (東大史料編纂所蔵『老農夜話』より)



備中鍬 (『農具便利論」より)
江戸後期、粘質土を耕すため、抵抗が小さく土の付着も少ない刃を又状にした備中鍬が現われ重宝された。


江州鋤 (『農具便利論」より)
粘質土や湿地の排水を促すため、深く耕す踏鋤が用いられたが、そのうち最も発達したのが江州鋤である。




唐箕


綿作の間に麦の播床をつくる二挺掛
(『農具便利論』より)



千歯扱 こきはしを使っての脱穀(『農業全書』農事図より)


商品作物

 中世後期には、領主への年貢がさまざまな生産物で納められるようになり、主として領主の日用品需要に応えるものではあったが、それ以上の販売収入となり売るほどの量を生産できるところも出現していた。
 領主の年貢米販売を契機に、廻船などの交通路が整備され、年貢米以外の農作物の流通も可能となる。江戸・大阪・京都という大市場へ運搬できるようになり、中央市場の声価を得て市場と産地が結びついて専門化が進み、特産地が形成された。近世においてはこうした動きが拡大・一般化し、都市の発達と農村の貨幣経済化によって、ますます促進されたのであった。さらに、領主の殖産・専売政策と結びついて発展したところも多い。
 販売作物の中心は畑作物であり、蔬菜では、まくわ瓜、加工原料作物では、木綿がその代表的なものである。まくわ瓜は蔬菜より水菓子として重宝され、輸送に耐えないことから主要都市周辺に名産地をもったが、上方では京都の南、九条から鳥羽のものが「東寺まくわ」とよばれ、都市からの人糞尿の施用など肥培管理のゆきとどいた集約的な栽培がなされた。
 木綿は摂津・河内・和泉・大和および瀬戸内海沿岸が最も高度な発展をとげた。干鰯・油粕などの購入肥料(金肥)を、多量にしかも綿の品質により肥料の種類を変えるなど多くの労力を使いながらきめ細かに施用した。また田畑輪換により稲と綿を連作し、きわめて高い収量を実現していた。掘井戸のはねつるべや踏車によるかんがいが、稲だけでなく木綿にも行われたことも、この地域の特色である。
 こうして桑(上野・武蔵・甲斐・信濃)、麻(下野)、藍(阿波・安芸)、紅花(出羽・陸奥)、菜種(美濃・近江・山城・河内・筑後・大隅)、楮(土佐)、漆(会津)、煙草(薩摩・筑前)、茶(山城・駿河・近江)、ミカン(紀伊)、ブドウ(甲斐)、サトウキビ(讃岐・大隅)などが特産地化した。それぞれ、家内労働的な加工業をも伴って商品として流通するに至り、わが国農業の特徴である、限られた土地を大量の労種投下によって最大限に利用して生産を高めるという形が、近代農法導入までの間に確立し、江戸期の安定を支えたのである。


近世の主要交通路


紀伊のミカン 
(『日本山海名物図会』より)


薩摩の黒砂糖 
(『日本山海名物図会』より)


阿波の藍(苅取運搬)
((社)三木文庫蔵『藍作の図』より)




山城・宇治の茶つみ
(『日本山海名物図会』より)


出羽の紅花
(山形美術館蔵『紅花図屏風』より)




甲斐のブドウ
(『日本山海名物図会』より)


近江のカブラ
(『日本山海名物図会』より)