近代のむら

地主制の展開

 明治新政府は、地方制度の整備に力を入れた。それまでの藩や郡、村を大きくまとめ、府県や郡、市町村に再編し、明治6(1873)年に設立した内務省と、地主や自作農の代表を擁する議会とにより、中央集権的な体制を固めた。この結果、新しい市町村は約16,000に激減し、近世の村落(旧村=自然村)は部落となり、新しい市町村(行政村)の大字になった。自然村の実質上の地域的なまとまりは、水利用における水利組合などの機能にみられるように、いわゆる「むらの共同体機能」として働き続けた。
 近代のむら内部の特質は、地主制の展開のしかたに対応している。明治政府は、地租改正と民法により近代的土地所有制度を確立した。この措置で成立した地主層は、初期においては、すでに江戸期の終わりごろから芽生えていた豪農もしくは手作り地主といった自ら耕作する性格を色濃くもっており、政府の勧農政策に沿い、部落の中にあって名実ともに部落の代表格であった。このころ上昇傾向にあった米価と定率の金納地租との差益を入手できたため、土地の集積は進めつつも、なお米の単収増やさらに有利な換金作物の導入を図るなど旺盛な営農意欲をもち、部落の指導的役割を果たしたのである。
 しかし、日清・日露戦争後にはこうした積極的な役割を失い、小作料収入の増大のみを求める寄生地主が多くなり、土地改良など生産的諸策にも消極的となった。また、不在地主として都市に住み、部落の枠、市町村の枠をこえて土地集積を進め、部落との一体感を失っていった。加えて恐慌を機に小作争議が激化し、むらは動揺した。
 一方、旧開のむらを離れ・新天地への入植も盛んであった。士族授産のための緊急開拓、北海道拓殖、恐慌により疲弊した農村救済のための大規模開墾、さらには植民地への進出など、新村建設は時局の転機に出現した。
 しかしながら、生産性が低く資力も乏しい農民たちにとっては、開拓の生活は厳しく、部落を形成するまでに至ったところはほとんどなく、離村することが多かった。反面、大規模に資本を投下した開拓推進者をはじめとし、手放された土地を集積する大地主が生まれ、ここでも、むらの消長は地主制とともにあったのである。

大農業

 西欧、特にイギリスにおいては、農業も資本主義化され、資本家が地主に地代を払い、労働者を雇って経営する形態が発達したが、わが国においては、家族が自らの土地を耕作する小農経営が一般的であり続けてきた。
 明治期には、工業の資本主義化に伴い、御雇教師や洋行帰りの政治家・農学者から、伝統的・零細な農業をも改革し、大農場において欧米農法で企業的に経営しようという意見が出され、広大な官有未開地の払い下げを受けて経営を試みる者が出てきた。かれらは資力を蓄えた旧大名や上級士族・高級官僚・豪商で、政府による減・免租の特典を受けて開始したが、試みはほとんどが失敗に終わった。
 その中で唯一といってよい成功例は、小岩井農場(岩手県)である。小岩井農場は、鉄道局長官井上勝が払い下げを受けた岩手山南麓の3,622町歩(約3,622ha)に三菱が資金供与し、共同で明治24(1891)年から発足したが、当初の井上の経営による欧米農法の試みが失敗したあと、明治31年からは三菱社長岩崎久弥の個人経営に移った。岩崎は「高等貴種」の牛馬を輸入し、牧畜業を中心とした大経営とした。途中稲作を取り込んだが中止し、欧米風の畑作と畜産に力を入れた。イギリスでみられたエンクロージャーのように、周辺や農場内に介在した私有地や入会地・分割地を集中し、この土地集積と周辺農民の大量雇用および種畜・機械の輸入を通じて、普通の農家では生産できない種牛やバター、競馬用のサラブレッドなどの特殊な高級品を生産した。かくして明治末期から純益が増大しはじめ、現在でも特異な資本家的経営を続けている。
 一方、同じ時期に無所有の未開地6,265町歩をもって開始した旧阿波藩主の蜂須賀農場(北海道)では、当初の直営が失敗したあと、明治35年から全面的な小作制に移行し、また、同時期から石狩川水系の水を利用した水田に転換した。
 このころの稲作は、現代とちがって伝統的に大型機械(農具)による大面積の経営は不可能であり、それよりは家族で多肥・多労と品種改良を中心とした集約経営が適していた。加えて畑作のように機械に投資するのとは異なり、土地すなわち、かんがい施設に投資する水田では、どうしても土地生産性をあげる方向にしか発展できなかった。児島湾干拓地(岡山県)における藤田農場で行われた大経営の水田でも、こうした小農経営には対抗できなかった。この限界を突破するには、戦後の機械化一貫体系の確立を待たねばならなかった。


明治40年代の農家の庭先 (東京・青梅)


明治の小岩井農場