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part.1 国土と人々 part.2 国土づくりの歴史 part.3 技術の歩み
コラム 須佐男命と夜刀神

 八岐大蛇を退治した須佐男命は、一方で荒ぶる神の顔ももっていた。命は、高天が原で乱暴狼籍をはたらき、出雲の地に追放されたのであるが、『日本書記」には、この罪は、姉の天照大神の美田をねたんでおこしたものだという。
 すなわち大神の田は天安田、天平田、天邑井田といい、長雨や干天にあっても被害がないのに対し、命の田は天織田、天川依田、天口鋭田といい、やせ地で雨が降れば流失し、日照りがあれば焼けてしまう。命は「廃渠槽及び埋溝、毀畔」を犯したというから、大神の田には畦畔が整い、樋や水路によって、かんがい用水が供給されたらしく、土地のそのものの条件もさることながら、それらの施設によって安定した収穫があげられたのである。
 命が犯したがんがい施設破壊の罪は、後に制度化されると、一般の犯罪(国つ罪)とはレベルの違う大罪「天つ罪」になる。施設の重要性が、広く認識されていたことの反映であろう。
 天照大神の田は、村里に広がった低地の田であったのに対し、命の田は、杭を打たなければならない湿地や川沿いの氾濫原、細長い谷間にあったのではないかと、その名から想像できる。谷間の水田が条件が悪いと評価されるのは畿内先進地のゆえであり、辺境地域では谷間の開出さえ大事業であった。
 『常陸国風土記』の行方郡(茨城県)の記事には、箭括麻多智が、谷の葦原を拓いて、田にしようとしたところ、夜刀神の群れがこれを妨害したため、彼は山の入り口に社を設けてこれを祀り、やっと10町歩余の開田にこぎつけたとある。
 夜刀神は谷頭の神で、八岐大蛇と同様蛇身であるという。谷の奥は湧水のため低湿でヘビがすみつき、また、くねくねと細く曲がって流れる川がある。このような悪条件を克服してわずかの開田が行われたのであるが、その後、壬生連麿という人がこの谷に池を築いてはじめてこの谷を占めたという。
 麻多智の時代には、谷筋の中でもあまり手をかけないで水田を造成できる谷頭のような条件のよい部分だけが開かれたのに対し、谷の全体が開田されるのは、時代が下り溜池のような安定した水源を備えたうえでのことだったのであろう。
 当地域は、後の式内社鹿島神宮との関わりが探く、東国でも古くから開けていたところである。洪積台地の谷間は、こうした開墾説話にみられるような過程を経て、東国の重要な生産基盤となったのである。
現在の鹿島神宮
  現在の鹿島神宮

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