山ふところに拓かれた谷地田

 日本のいたるところで、山あいの小さな谷を拓いてつくられた水田が見られ、我々の目には山のふところに抱かれた水田は懐しいものとなっている。こうした谷地田が拓かれたのは古く、稲作伝来以来のものも多くあろう。
 中世には、条里地割施行地以外の地域にも開発の手が伸びた。それは平坦部の縁辺に位置する洪積台地や山地を刻む河谷であり、農民が自然の湿地や湧水によるかんがいを利用して谷地田を拡大・改良し、これらを自らの保有地とし、付近に住みついていったのである。
 中世初期の農村は、現代からは想像できないほどの荒れはてた姿であった。平坦地に広がる条里地割の内部でも、用水条件の不備で荒地や畑が意外に多く、収量も不安定であったからである。こうしたことから、中世においては谷地田こそが最も安定した耕地であり、標準的な耕地であったとする説もある。たとえば、薩摩国入来院(鹿児島県)や備後国大田荘(広島県)では、平安後期には水田はほとんど例外なく小さな谷ごとに拓けた谷地田で、湧水や雨水などを利用しており、下流のやや開けた沖積低地では開発は進んでいなかったことが、現在の地名などに当時の文書に記された名(権利が確立した土地の占有者の名前)が残っているところから明らかになっている。
 このような水田の分散状況に応じて屋敷も分散し、1戸ないし数戸の農家が狭い面積の谷地田とセットになった小村ないしは散村の形が、枝分かれした細い谷ごとにポツンポツンと散らばっているような景観を呈していたものと考えられる。これは古代においても見られたであろう景観ではあるが谷の全体が一つの水田地帯として拓かれていったのは中世になってからである。ともかく、それぞれの小村は相互に孤立し、このころすでに畿内などの中小河川の流域で形成されはじめていた水利組織のような、水田利用をめぐる村々の共同関係は成立していなかったであろうとされている。
 谷地田は、周辺高地からの流入水、伏流水の湧水や雨水に依存して開田されたものが多い。それに、排水路が未整備であったり、用水が不足がちで排水を行わないようにするため、排水が悪く湿田状態であった。また、このような状態のまま今日に至っている谷地田も多く、現代の営農条件からみると、農道が不備で区画も狭いうえに不整形で、機械化営農に対応できず生産性が低い。


谷地田のガマ
ガマは、谷川を石組で囲んで地下水路としたもので、その上に土をのせて水田がつくられている。ガマは、田の1枚1枚に水口を開口して水を入れるが、必要時以外の水は、水口に設けた落とし口で下方に排水される。(大阪府能勢町)


宮の谷のガマ実測図



拓かれた谷地田
備後国(広島県)大田荘のへ世羅郡の東半を占める大田荘桑原郷上原村(現甲山町)は、世羅台地を侵食する谷の中に拓かれ、中世の名が地名や屋号などとして残っている。