伝統的な土地利用のしくみ

 わが国の農村には、伝統的に安定した土地利用が成立していた。それは、模式的には、居住点としての集落を中心に、屋敷に付帯した家庭菜園、生産の中心である水田と畑地、これら耕地のまわりに肥料源としての採草地や雑木林(里山)が同心円状に取り巻き、最外周を森林(植林地などの奥山)がおおうというものである。山深くなると、外縁に近いところに焼畑が飛地状に分布するところもある。
 こうした利用形態の異なる土地は、自給自足的色彩の濃い農村にとって、生活・生産を続けていくうえで欠くことのできない相互関連をもつ構成要素であり、緊密に結びついた一つの構造体を形成していた。
 それは同心円的な圏構造といえるものであり、各地目の配列は、外則に向かってきつくなる傾斜の度合いによる配列であるとともに、集落からの距離による配列でもあった。したがって、村での土地の利用度合いによる配列でもあり、外則に向かって粗放になっていく。常に人がいて生活を営む集落から、家庭菜園、集約的な管理を行いながら1年1作か2作程度の耕作を行う耕地を経て、年数回から数十年に1回の利用になる採草地、森林へと多様な自然条件に適応した巧みな利用の姿であった。
 観念的にも、人の住むムラから神の住むヤマヘと、日常世界から異界へとつながる空間の広がりとしてとらえられていた。



 生産物は一方的に内側へ運ばれるだけでなく、下肥やゴミなど廃棄物が外側へ、集落から耕地へ投入される。こうした物質循環でつながった構造体は、村での生産と生活の形成に伴って生まれ、圏域を拡大していったのであるが、現代の初頭に至るまで巨視的には都市までを包み込んだリサイクルシステムとして機能していた。社会の基幹をなしていた伝統的な農村の生産・再生産過程が、地表に投影された姿であるといえよう。この構造は、各構成要素がその機能を十分に果たし得てはじめて維持される。機能維持のために過度の利用は禁ぜられ、外周の山林といえども、生産のみならず治山・治水上の観点からも適切な管理が要求された。また、このような構造をトータルに維持していくことが、生活・生産を維持していくことであると考えられ、構造を地目に分解せずにトータルに把握する目が養われていたのである。戦後の緊急開拓においても、開拓村の建設に際してこの構造をセットで設定したのはその一つの現れである。
 このトータルな認識のもとに国土が維侍されてきたのであったが、高度経済成長期を境に、各構成要素が地目さらには小地片に分解されるなど、相互関係が希薄になり、伝統的な土地利用の構造は大きく変動している。


灰買人(『守貞漫稿』より) 京の尿買い(『金草鞋』より)

 幕末から明治にかけて来日した外国人は、日本の都市の清潔さに驚いた。ロンドンが「おでき」と呼ばれるまでに衛生状態が悪く、農村から遊離していたのに対して、わが三都では、近郊農村との間に、市街地と田園との融合が実現していた。廃棄物の売買をも手段とするリサイクルの仕組みであり、高まる都市のエントロピーを農村が吸収していたのであった。


酔っぱらいの頭上に屎尿が降るロンドンの夜(ホガース作『一日の四つの時』より『夜」、1738年)




村の圏構造


伝統的なリサイクルシステム