都市をつくった耕地整理

 都市が拡大して郊外の農村が都市化していくとき、その接点では様々な弊害が生じた。いわゆるスプロール現象である。
 安定を保ってきた農業的土地利用の中に、縦に無秩序に工場・倉庫・住宅などが進出し、耕地を蚕食していく。面として広がっていた優良な耕地は、バラバラと小地片に切り離されて、農業経営そのものもまた粗放化・荒廃していく。一定の秩序をもっていた用水系統は分断されたり、家庭排水やゴミの流入で下水化して、耕地の緩衝力は減殺され、中小河川の能力不足もおこって水害が常襲するようになる。
 農村の都市化過程でこうした無秩序なスプロール現象を緩和し、街路・街区に一つの枠組みを与えていたものに、明治以来耕地に施された区画整理がある。明治32(1899)年に制定された「耕地整理法」に基づく区画整理は、昭和29(1954)年、都市計画区域内の区画整理事業が行われるまで、大正8(1919)年の「都市計画法」公布以降もなお、膨張する都市域に一定の方向を与え、整然とした街区の形成に有効にはたらいたのである。
 耕地区画(それは将来の街区につながった)を整形し、それに接する道路をやや密に入れ、縦横に曲がりくねった水路を、直線化した道路および区画と関係づけて配置しなおすばかりでなく、小さく分散化した地片を秩序だて、共同減歩によって公用地をも生み出すという手法は、耕地整備の基本的な手法であった。「耕地整理法」が対象としていたのは耕地であり、その目的は畦畔の整理とかんがい排水施設の整備による耕地の改良であり、ひいては地主の小作料の増徴対策でもあった。しかしこの手法は、都市区画の形成にも有効であったため、結果的に都市的土地利用と農業的土地利用との調整を果たした。
 名古屋市では、明治45(1912)年から昭和5(1930)年までに、631町歩(631ha)を施工する城東耕地整理組合をはじめ、27組合、3、477町歩が耕地整理を実施した。都市区画整理も昭和9(1934)年までに59組合、3,373町歩が行われたが、戦災で復興した中心部に隣接する地域は、耕地整理が都市を形成したといってよい。同様に、現在、東京の代表的住宅地である田園調布や成城学園などは、大正年間に耕地整理法に基づいてなされた農村地域整備が基礎にあるといえる地域である。



名古屋市の耕地整理・土地区画整理区域
干拓で生まれた大潟村の中心地は、右の図および写真のように計画的な居住区がつくられ、住居と圃場は完全に分離された形となっている。