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part.1 国土と人々 part.2 国土づくりの歴史 part.3 技術の歩み
水から土地を守る,輪中

輪中のはじまり(模式図)
 濃尾平野の西南部では、低湿地に木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)が集中し、排水が悪くしばしば洪水の被害をこうむってきた。河川は氾濫し土砂を堆積させ、旧河道と自然堤防と後背湿地が網の目のように発達している。農民たちは古くから自然堤防などの微高地に集落と耕地をつくってきた。
 輪中は、水害から守るため、集落や耕地の周囲を堤防で囲んだところをいい、この堤防を輪中堤という。濃尾平野では木曽川河口からほぼ45kmの内陸にある岐阜市から伊勢湾まで大小45の輪中が連なっている。
 当初、堤防は集落・耕地の上流側にあたる部分に造成され、濁流の激突をかわすことに努めた。こうした堤防は、下流からの浸水にはまったく無防備であったが、耕地は冠水しても土砂による埋没・荒廃は免れ、反面、肥沃な土壌が堆積して地力はむしろ年々更新されていった。
木曽・長良・揖斐の三川が合流する輪中地帯
木曽・長良・揖斐の三川が合流する輪中地帯
 その後、築堤技術が進歩し、完全な水防を求める農民たちは、集落や耕地を全面的に取り囲む堤防を築くようになった。その結果、河川はしだいにせばまり、排水時には土砂はもっぱら堤外地に堆積することとなった。そして、河床は一段と高まり、堤内地(輪中)はさらに低湿地化の度合いを高め、外からの洪水と中からの排水の両方に対策を講じなければならなくなった。輪中は、水害から身を守る農民たちの発想から自然に生まれただけでなく、近世の洪水対策にも原因がある。慶長14(1609)年の御囲堤と宝暦3(1753)年の宝暦治水がその代表的なものである。
 御囲堤は、親藩の尾張を水害から守るために木曽川の左岸に築かれた。これに対して美濃側の堤防は御囲堤より3尺(約1m)低くと取り決められたため、美濃側は局部的な水防をせざるを得なくなり、加納輪中などが急速に築かれた。
 その後、美濃側の水害防止のために宝暦の薩摩藩御手伝普請で木曽川と揖斐川を分流する油島締切工事が完成するとその上流部の水位が上昇して、従来なかった所まで輪中堤が必要になった。
 輪中は、一般に輪頂に用水取入口を設け、輪端に排水口が設置されている。輪中は、用水獲得が容易であるように思われるが、輪中堤に取入口を設置することは破堤の原因になることが多く、むしろ輪中は引水に困難であり、掘抜井戸による地下水の利用が発達した。また、輪中内は慢性的に排水困難なため、水田は掘り上げ田の景観を呈するようになった。
 こうして、濃尾平野をはじめとして、利根川、信濃川流域の大河川下流低湿地域でも、開発は輪中に依存し、輪中をつくりながら進められた。
  敷地を高くした「水屋」とよばれる民家
敷地を高くした「水屋」とよばれる民家

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