農地を改良する、耕地整理

 田区改正の自然発生的な流れのあとを受け、明治32(1899)年、「耕地整理法」が制定される。戦前における耕地整理事業はこの法律を基本として実施され、近世以前の農地の状態を一新していった。
 活発に行われていた田区改正が耕地整理として法制化されると、事業の実施は土地所有者の3分の2の同意で施行できるなど手続が整備され、一定の範囲で体系的に実施することが容易になり、耕地整理が地主層にも魅力のあるものになった。


一般的に採用された鴻巣式耕地組織


鴻巣式耕地整理
30間×1O間の1反区画で、すべての区画が用排水路と道路に接している。



 耕地整理事業で実施されたのは、埼玉県鴻巣町・常光村で明治35年に着工された方式をモデルとする「鴻巣式」である。区画は30間×10間(約54m×18m)の1反(10a)で、すべての区画が用排水路と道路に接していた。用排水路を整備すれば湿田が乾田化し、水稲収量の上昇や二毛作田の増加をもたらした。また、「静岡式」や「石川式」に比べ道路や水路敷による水田の潰れ地率が低いことは、作付面積の増加をもたらし、小作料を増徴する地主層にも有利だったのである。
 明治38年に新たにかんがい・排水が工種に加えられ、明治42年の改正では区画整理よりも用排水が事業の主目的にすえられるようになった。この改正により、耕地整理の基礎となる用排水の改良が、重点的に実施されだした。用排水改良を含む土地の抜本的な整備による増収は、地主層が望むところでもあり、米価の高騰や国の助成に支えられ、小作争議の解決策としての効果も果たした。

 耕地整理事業の施行地の分布をみると、西日本では、条里地割など明治期までの整形区画が広く分布していたため、わずかに内陸部の谷底低地の排水不良田に小面積で暗渠排水を主として行われた。また後には、揚水機や溜池の設置が噌加する。一方、東日本では、大河川中・下流域に多くの遊水地や洪水常襲地をかかえており、こうした未墾地や不安定耕地に対し、河川整備の進展にしたがって、用排水の改良および開墾という形で高密度に行われた。この結果、低収量地帯の多かった東日本においても、明治農法を普及させる前提条件がつくり出された。
 水田の区画形状の整備を軸としてはじめられた耕地整理は、狭小・不整形であった近世以来の区画を、統一的・規格的に新農法に対応する形に再編すると同時に、排水改良・乾田化にも重要な意義をもっていた。昭和24(1949)年に「土地改良法」が制定されるまで、耕地整理は総合的な耕地整備として展開され、米を中心とした食糧増強基調を支えたのである。


当時の暗渠排水設計の一事例



日本における耕地整理の進展(1900~1939年)