水路が結ぶ社会

 農業にとって重要な水は、わが国では土地が個々の農家によって私的に耕作されたのと異なり、多くの場合私的に占有することができなかった。水を取り入れ、個々の水田に分配する機能は、村を単位として果たされていたといえる。


一ノ瀬川配水に関する書類
水が乏しい場合、時割、日割による極めて厳しい配水が行われた。

 河川を取水源として、水路によってかんがいされるシステムは、村々を結びつける。一つの村が、独立に水を獲得し、独占することができないからである。先進地域ではすでに中世から、一般には元禄・享保期ごろになると、戦国期以降の新田開発の結果として水は希少資源となり、取り合いが起きた。村々は鋭く対立し、土地の領域、用水の配分をめぐって流血をも辞さない紛争が発生した。枝分かれした水路へ次々と配分されていく過程で、水は上流と下流の利害の対立を引き起こす。特に渇水時には、上流側が水路を締め切り全量を獲得すれは下流側に水が流下せず、豊水時には隠れていたかにみえる緊張が一挙に表面化し、爆発する。水源水量の変動が大きく、地形勾配に沿って水を自然流下させるという、河川かんがいシステムの宿命である。
 しかし、村々の対立をそのままにしているだけでは、水の配分調整は困難になるばかりである。長い紛争を経て、村々の間に利害調整のための用水慣行が形成された。村々が井組や水組という組合をつくり、村々の連合ともいえるその組合の中で秩序づけられるという形である。調整された結果は、開発の古さや力関係を反映する。この組合が分岐する1本の支線単位なら、今度は支線間に利害調整の組織が形成され、末端から幹線へ、また元の河川へと同じ過程をたどって、ついには一つの大きな組織が必要となる。河川が大きくなるほど、広域的に複雑多岐にわたる。上層の組織になるほど強力な権威が必要となり、封建領主や国・県の行政がそれに当たった。時代によって権威は代わるが、用水の配分組織は変わらない。


綾部一ノ瀬堰
堰へ取り入れる水量は、村々の最大の関心事であり、分水には色々な工夫がみられる。寒水川上流の一ノ瀬堰では加減石と呼ばれる2つの自然石を巧みに配置することで水量を調整した。
(佐賀県中原町)



溝浚え
水路の維持管理は、「むらの仕事」で行い、人々が作業を通じて連帯感を高める重要な行事であった。

 もう一つ重要なことは、組合は施設の維持管理をつかさどることである。施設が関与する地域全体が共通の利害をもっており、堰なら全域、水路なら分水点を境に水を配る区域と、範囲ごとに施設の機肯雛持のため、関係農民に補修などを共同労働で行うよう動員する。農民は、自らの死活に関わる施設であるから、それに従う。  わが国の農業用水で河川を水源とするのは、面積・水量とも約9割を占める。1施設当たりかんがい面積は約24haと小さいが、この小さなまとまりごと、同じ河川ならまとまり相互の間に、こうした歴史的・社会的に形成された関係が横たわり、生き続けている。


桂川用水差図
山城国の桂川(現京都市右京区)では多くの井堰が設けられていた。これらのうちのいくつかは河川を横断する石積のもので、その漏水までが水争いの原因となった。この絵図は、明応5(1495)年ごろ、用水争論の際に作成された。右岸側の上・下久世荘などが対岸の西八条西荘の取水井堰より上流に新たな取水口(桂橋下流の「去々年堀新溝」)を設けたことに端を発し、25年もの期間にわたって争われた。1本の用水路をめぐって、1つの荘園の枠をこえた用水組織がこのころ形成された。
(京都府総合資料館蔵)