水をあやつる大名

 戦国大名には、河川の扱いにすぐれた者が多い。自国の領内を十分に治め、富国強兵と殖産興業で経済的基盤を確立するため、未開地の水利開発に力を注いだのであり、反面、河川乱流地帯の耕地化が徐々に進んで、こうした沖積地に居城を構えれば、城下町と耕地を河川から守らねばならないからである。
 甲府盆地を根拠とした武田信玄は、その代表である。盆地を流れる釜無川の天文11(1542)年の氾濫をきっかけに、彼はこの川に合流する御勅使川の合流点を変更した。この結果、合流点対岸が岩石崖(竜王高岩)になり、合流による切り込みを防ぎ乱流を防ぐ。このあと、雁行する不連続堤である「信玄堤」という霞堤を築き、河道を固定した。
 「信玄堤」は下流に下るとともに川から離れ、平常流路との間に流作場をつくる。この流作場は、洪水時の逆流を導く遊水地ではあったが、不安定ながら耕作もできた。江戸期以降、堤防の整備と流路の閉じ込めに伴い安定化していった。また水勢をそぐ聖牛という木枠を設置した。堤の日常管理のため祠を祀り、群集に踏み固めさせたといわれるが堤への人々の注目を期待したからでもあろう。


信玄堤古図(『竜王村史』より)


武田信玄の御勅使川の治水
盆地への出ロに5本の頑強な「石積み出し」を設けて川を北流させ、将棋の駒形の堤防「将棋頭」で流れを二分して水勢をそいだのち、岩石崖に流れをぶつけて釜無川と合流させた。


今に残る釜無川の信玄堤



 同じく、河川を押え込むのではなく静かに他へ導く方法で洪水処理を行った人に、肥後の加藤清正がいる。熊本平野を流れる緑川の支流浜戸川に堤防の一部を低くした乗越堤を設けたのをはじめ、菊池川を瀬替えして廃川となった旧流路の唐人川筋を干拓して新田を開発した際にも、菊池川に流入する木葉川に乗越堤を築いて遊水地をつくった。上・中流の遊水地で、下流を守る方策である。

 乗越堤の手法だけでなく、彼は緑川・菊池川のほかに白川でも瀬替えを行い、「石塘」という背割石堤で分離し、かつ暗渠で洪水を抜くなど自由自在に河川を扱う技術をもち、それらを駆使して開発を進めたのである。さらに旧唐人川筋の小田牟田の干拓のみならず、八代の球磨川河口三角州でも干拓を進めたがこのとき有名な遥拝堰を球磨川に築き、新田の用水確保を図った。
 戦国末から近世にかけてのこの時代は、河川の処理を行わないと開発の余地がなくなる時代の入り口であった。そこで彼らは領国内の河川を全体的に把握し、かんがい・洪水防御・舟運・戦略など総合的な目的にかなうよう、また流れの状態に逆らわないような河川の処理を行ったのである。近代以降の連続高堤防で洪水を海に速く流す方式が一般化するまでの、ある意味で豊かな知恵であった。


横島井樋
天正17(1589)年~慶長10(1605)年の菊池川の瀬替えによってつくり出された干拓地が小田牟田新地(下)。旧菊池川と唐人川との合流点付近の横島と久島の問には、潮流の逆流からこの新地を守るために石塔が築かれ、横島井樋によって、内水を排除した。下の写真右手前の家が建っている所が石垢で、手前を流れる河川の出ロに横島井樋があるロ



小田牟田新地