流れを受け入れる、関東流

 合流や分流をくりかえし西に東に乱流する原始河川と、無数に点在する大小の沼沢を抱え、開発の手のおよばない大デルタ地帯。これが近世をむかえるまでの関東平野の姿であった。しかし、江戸に幕府が開かれてからは、穀倉地帯としてその姿を大きく変貌させていく。
 これを可能にしたのは、戦国時代から大発展をとげていた技術で、世にいう「関東流」(伊奈流ともいう)である。家康の家臣であった関東郡代伊奈忠次によりはじめられたこの技術は、幕府直轄の技術として、伊奈氏一族に受け継がれた。伊奈氏は、約200年間にわたり、幕府の技術者集団として今日の関東平野の原型をつくった。
 伊奈氏に先立ち、文禄3(1594)年、忍城主・松平下野守忠吉は利根川本流の会の川を締め切り、分流の浅間川を本流としたが、元和7(1621)年に3代忠治が新川を開削し利根川を渡良瀬川に合流させるなど、伊奈氏は利根川・渡良瀬川を東流させて鬼怒川に、また荒川を西流させて入間川に瀬替えする工事を行った。承応3(1654)年には4代忠克が赤堀川を浚泄開削し、現在の利根川水系の原型ができあがった。この瀬替えによって、利根川以南では旧河道や遊水地の変動は少なくなり、流域は安定してきた。旧河道や遊水地を用水源や排水路として利用することで水田が拓かれた。


利根川水系の原始河川は,このようにして改修されていった。


 こうした新田開発の代表例は、古利根川の三角州に開削された葛西用水(万治3=1660年4代忠克により設計・施工)である。この用水は、利根川からの用水増強を行ったうえ、瀬替えにより死水化した古利根川を堰き止めた三つの溜井を基本構造に、古利根川を用排兼用水路として利用するものである。溜井による用水確保で、周辺に広がる低湿地帯を水田化したのである。旧河道の地形を利用し、上流からの排水を受け下流の用水とする配水システムの溜井は、関東流の典型である。
 関東流技術のもう一つの特徴は、洪水処理である。水害防止のために、乗越堤・霞堤・流作場・遊水地などが設けられた。河道を幅広く蛇行したままにし、洪水を蛇行部に滞留させつつ徐々に流入させる。農地には肥沃な土砂が流入し、流域内に点在する沼沢や低湿地を縮小させて耕地造成を促した。このため関東流では「川瀬は一里四十八曲がり」を貴んだとされている。
 このように関東流は、自然をうまく利用した技術であるが、やがて新田開発の拡大とともに、関東平野の開発は紀州流が受け持つことになる。


瓦曽根松圦および竹洗堰(上)と古利根堰(下)
溜井は貯留能力をもった堰である。用排兼用の関東流の溜井は、下流ヘー定量の水が流れる仕組みになっている。(葛西用水路上地改良区記念館蔵)