水を中心とした地域開発、愛知用水

 地域開発にとって、水は要となる。水を中核とした戦後のビッグプロジェクトのうちで名高いものに、「国土総合開発法」にもとづく木曽川開発の基幹事業として行われた愛知用水事業がある。愛知用水事業は、愛知県の尾張丘陵から知多半島へと続く高燥地の農業を安定させるために行われた、農業を主体とした総合開発であった。
 計画は、木曽川の上流、長野県御嶽山麓に牧尾ダムを建設し、生み出された水を岐阜県の兼山取水口から取り入れ112kmの幹線水路と1,000kmにもおよぶ支線水路を通じ、農業用水・上水および工業用水として供給するものである。
 事業は、農林省所管の愛知用水公団が基幹から末端まで一貫施工し、昭和32(1957)年から総事業費422億をかけ5年で完成させた。わが国ではじめて外資を導入したほか、アメリカの技術協力も受けて新工法が採用され、最新鋭の大型施工機械を導入して全面的な機械施工を図るなど、その後の技術の進展に多大な影響を与えた。
 愛知用水は、木曽川下流の宮田・木津・羽島の農業用水取水地点の上流から取水するため、これら近世初期以来の用水の既得権を保証してはじめて成立した。これらはすでに明治以降、発電水利との調整を経ていたが、犬山に頭首工を設けて3用水を合口し、新しい農業用水(濃尾用水)を建設することで、愛知用水は調整を果たしたのである。愛知用水のようなビッグプロジェクトを実現するためには、資金と技術の条件のほか、こうした水利権調整も大きな条件として解決されねばならなかった。ここに、現代の水資源開発の典型をみることができる。

 愛知用水は、はじめは一部の都市用水の供給のほか、農業用水を中心に計画されたが通水前後からはじまった高度経済成長の結果、周辺地域の都市化・工業化が進み、しだいに都市用水のウエイトを高めていった。受益地の減少で生じた余剰水と牧尾ダムの運用で生じる水量(発電水利のカット)により、農業用水から都市用水への転用が行われた。当初、農業用水1億1,000万m3、工業用水2,700万m3、上水道1,800万m3の利用が、昭和43(1968)年には農業用水7,150万m3、工業用水2億220万m3、上水道6,270万m3となった。
 このように利水の比率は大きく変わったが、通水当時は水稲の計画的作付と機械化を進め、疏菜や果樹・酪農といった集約的な都市近郊農業地帯を形成した。現在でも、都市化が激化していない知多半島を中心に、愛知用水を利用しながら積極的な園芸生産を行うなど、農業用水は大きな役割をもち続けている。


外国からの資金と技術の導入
世界銀行より外資導入をしたほかアメリカの技術も導入した。写真は計画を検討中のエリック=フロア社のメンバー。


大型土木機械を導入した牧尾ダムの建設



台地・丘陵をぬって流れる愛知用水幹線水路(延長112km)



水路舗装工事
スロープフォーム法という工法がとられ、決まった断面の型枠を順次送っては水路の舗装を行った。