水土の礎 キッズページ サイトマップ ご意見・お問い合せ
水土の歴史年表 地域の礎 水土の成り立ち 大地への刻印 国土を創造した人々 礎の歴史的展開 近代日本の礎 水土の巧
part.1 国土と人々 part.2 国土づくりの歴史 part.3 技術の歩み
溜池の建設



 溜池には、小さい谷や小川を堰き止めてつくったものと、平地に築堤したいわゆる皿池などがある。どちらも大陸から入ってきたもので、中国では前者を坡、後者を塘とよんでいる。
 古代につくられた溜池は、その長い歴史のなかで何回も改修が行われているために、昔の姿をそのまま伝えるものはないが、築造当時の形を類推すると、堤高は2m以内、堤長が100〜250m、貯水量は1,000〜40,000m3と考えられる。堤高にくらべて堤長が長いのは、堤防が曲がっており、二方堤・三方堤・四方堤が多いためである。
  

 また、盛土は初期のものは単一のシルト質の山赤土を突き固めただけのものであるが、その後、止水効果をあげるために粘土を突き固めた刃金土をもつようになった。



 溜池には、水を取るための取水施設と、満水になったときに水を逃がす余水吐が設けられている。
 最も初歩的な取水施設は、縦に二つ割りした松の原木の一方に溝を堀って再び重ね合わせた「樋管」に「樋棒」で栓をしたものである。余水吐は、堤の一端に盛土を掘り込んでつくられている。
 次の段階の溜池になると、取水施設は「底樋」とこれに接合する「竪樋」の組み合わせになる。「底樋」は箱状のもの、丸太をくり抜いたものや素焼の土管などからなり、池底から勾配をつけて設置される。「竪樋」には土手の内側に傾斜にそって設置するものと、「底樋」と直角に直立させるものがあり、ともにいくつもの栓が設けられており、水位に応じて取水するようになっている。また、余水吐は石垣・石畳でつくるようになる。
 さらに溜池が大規模になると、「竪樋」に「揺木」(「筆木」)で栓をしてこれを引き抜く足場を設け、数人がかりで「揺る抜き」をする。
 木製樋管は腐りやすいので、その防止策として底樋の最末端に水だまりを設け、底樋を常に浸水状態にして腐朽を防ぐなどの工夫がなされた。腐朽する木材の代わりに、幕末期には石材の利用もなされたが接合部からの漏水の問題が残り、抜本的な解決は鉄筋コンクリート管の登場までかかった。
 
古い木造の堅樋 (『広島の溜池と井堰』より) 満濃池の堅樋と底樋 (満濃池土地改良区蔵)




溜池の修復

 築堤は土を運んで突き固めるという限りにおいて、今も昔も大きな差異はない。
 昔の堤体の突き固めは、棒または杵を用いて堤防を突き固める「千本搗き」や「杵搗き」、シテ振りとよばれる先導が多数の人足を前後左右に追い回し足で踏み固める「踏み締め」などで行った。
 築堤上の最難関は、工事中の洪水処理であり、工事の失敗はこれに起因するものが多かった。
 現代でこそ、大きなダムの築造に当たっては本体工事に先立ち工事中の洪水を工事現場から逃がすための仮排水路を設けているが、流域面積の小さい溜池や皿池では洪水を迂回させたり「底樋」による排除が可能であるにしても、河川本流を堰き止めるような大きな溜池では、それはほとんど不可能であった。
 このため、大きな溜池の築堤工事は、堤の両側から築き上げ、まん中の部分は最後まで水道として残しておいて最後に一気に締め切るという方法を取っていた。満濃池(香川県)の仁寿3(853)年の工事では、最後の締め切りに当たり、「夫役6,000人を発し、10日を限り力をつくして築き、俵ごも68,000余枚に砂土をつめて深処をうずめた」とある。
 しかし、短期間に一気に築き上げられた堤の中央部は、常に堤防の弱点となり、決壊の原因ともなった。

満濃池の普請
嘉永2(1849)年〜6年の樋管の取替え工事を描いたもの。延40万人近くが動員された。(満濃池土地改良区蔵)
前のページへ 次のページへ