こう書くと、いかにも順調に稲作が進展していったかのように思えますが、北海道の耕地の多くは作物の生育には不向きな特殊土壌(泥炭土、重粘土、火山性土等)でした。したがって、こうした特殊土壌を避ける形で水田が広がっていったことになります。


「肥料をやらなくても、5年はもつ」と勧誘の文句にはありました。しかし、後で分かったことですが、肥料をやっても作物が育たない不良地が多くあり、開拓の重労働に加え、特殊土壌との闘いが待っていたのです。この困難な土地への対応はわが国の土性調査の基礎づくりに多大な貢献をなしたとされています。


泥炭地

泥炭とは、沼沢地や湖沼などの湿原植物の繁茂する湿地に集積した分解不完全な植物遺体の堆積物であり、ピートとよばれることもあります。湿地帯の植物などは、枯れても酸素不足となった条件下では微生物などの活動が抑制されるため、分解が完全には進まず、まだ植物の組織が肉眼で識別できる程度に腐朽した褐色の植物遺体が集積します。要するに枯れた植物たちがたまっていって、分解されずに炭化してできたところ。スポンジのようにフカフカで、水をたっぷり含んでいますが、乾くと沈下します。人の重みで地面がブヨブヨとゆれ、時に腰までぬかるんだりします。また急激に排水すると泥炭の分解を促進し、多量の窒素が無機化されるので窒素過剰の害の危険があるといわれています。


【写真】泥炭地起しの風景
写真提供: 北大図書館

乾いた泥炭層へ火が入ると、容易には消えません。土の層そのものが燃えることになります。「畑が燃えることへの驚きと怖れ。消しても消しても、地の底から炎が立ち、主人と夢中で川からバケツで水を汲み、何十回、いや何百回も汲み、火を消しました。衣服も何も泥んこです。やっと火が完全に消えた頃、東の空が明るくなっていました。精も根も尽き果てて、ぼんやり二人で座って空を眺めていました。そんな畑ですから隣家から“いなきび”1斗2升もらって播きましたが、収穫は2斗、製粉したら2升になってしまったという信じられない話もあります。(中略)味噌を作るため、外のかまどで火を炊き、作業の後充分気をつけて火を消したはずでしたが、泥炭層に火が入ってしまい、家まで延焼してきて、焼けてしまいました」(前出『語り継ぐ女の歴史』より)。干ばつの年など、煙草の火で土の中が10日間も燃えつづけたと記録にあります。一度燃えた土は雨が降っても浸透せず、風が吹けば「パフパフと飛んでしまう畑」になったといいます。


重粘土層

重粘土は明確な定義ではありませんが、「粘土含量が高く、粘質でしかも組織の堅密な土壌をいい、透水性は著しく不良で降水量が多いと停滞水を生じて過湿状態となる反面、乾燥時には干ばつを招きやすく、土壌が強く固結して耕耘が困難になる。砂質または礫質土は粘土および腐植含量に乏しく、粒子のあらい土壌で、通水性、透水性が過度で、夏季には干ばつを受けやすい。有機物の分解消耗が著しく、土壌自体の養分が少ないほか肥料成分の吸着保持力が弱い。一般的な対応策としては土壌反応を適正にし、有機物施用による微量要素の補給を行う。」(平凡社『世界大百科事典』より)


戦後開拓民の凄まじい生活を描いた開高健の『ロビンソンの末裔』は、小説ながらルポルタージュに近い作品ですが、その一節にこうあります。「・・・土でいちばん負けるのは重粘土だね。これには負ける。酸性だとかアルカリ性だとかちゅう土はいいかげんひどくても、客土するね、暗渠切るね、金肥撒く。そうすりゃなんとか息を吹きかえすちゅうことがあるけど、この重粘土って奴ァ、もう、どだい、作物の根が入らんのじゃけれ、またたとい根が入ったとしても息ができんのじゃけれ。」


火山灰地

「不良火山灰土とはシラス、ボラ、アカホヤなど火山性の特殊土壌のほか、火山灰土壌の作物生産に対する一般的な不良性質をさす場合がある。火山灰土壌の不良性は、主としてアロフェンとよばれる非晶質の粘土鉱物と、特異な腐植とから構成されているためである。アロフェン中には陰性コロイドと結合していない遊離のアルミニウムが多量存在し、植物根に直接害を与えるほか、有効態リン酸と塩基が著しく欠乏した酸性土壌となっていることが多い。」(平凡社『世界大百科事典』より)。


【写真】斜里の美しい防風林

「朱円の土地は有名な風害地帯で、春の桜の咲く頃は風害の時期で、毎年のように芋種はコロコロ土から飛び出し、豌豆葉根をつけたまま茎ごと吹き飛ばし、空の馬車がひっくり返るほど・・・。話をしても信じてもらえないほど強烈でした。ここは石原なので表土が飛ばされると、畑に石がむき出しになってしまうのです。悲しい思いで補植をしましたが、今は畑地も改良されて良くなりました。風対策にと、毎年、防風林を一生懸命植えました」(前出『語り継ぐ女の歴史』より)


巨木を切り倒し、熊笹を払い、ようやく畑らしくなってきて作物を植えると、強風のため種も根も、土煙とともに作物すべて吹き飛ばされてしまう。また、防風林を植え直さねばならなかったといいます。




これらの特殊土壌の改良は早くから実施されています。農事試験場が泥炭地の改良試験に本格的に取り組むようになったのは大正9年から。初期の試験は主として明渠によるもので、その深さや間隔と作物収量との関係を調べて施工法を決めようというものでした。作物は燕麦、小豆、馬鈴薯などが供試されました。なお、明渠によるほ場排水は、潰れ地が多い、農作業の障害になるなどの理由から一般にはあまり普及しませんでしたが、戦後の泥炭地開拓ではこの方法が補助対象とされ、広く実施されました。


暗渠排水に関する試験は、昭和8〜9年に粗朶、木管、木桶、泥炭投げ込み等の資材比較試験他、多くの試験が行なわれています。


不良土壌の改良において、排水と並んで有効な方法として客土があげられます。客土が国費補助による土地改良事業として登場するのは昭和の年代に入ってからですが、すでに元禄11年(1698)に厚岸で客土が行なわれたという記録も残っています 大正8年には美唄に泥炭地試験地を開設するなど、さまざまな泥炭地で試験が行なわれてきました。北海道開拓の歴史は、土壌改良の歴史でもありました。