明治期における北海道開発の特徴は、資源略奪型の開発であったと言えるでしょう。水田が拡張していく一方で、丘陵地の畑では養分の収奪と土壌の浸食による荒廃が増えてきました。肥料もやらない略奪的農業により、地力の衰えが農地としての維持が困難になってきたのです。畑は有機物の分解が早く、栄養分は作物に吸収される一方で、雨水とともに流亡しやすい傾向があります。地道な土づくりを怠って収穫を続ければ、地力が減退し、やがて不毛の地と化します。略奪的な土地利用は、古代文明衰退における大きな要因のひとつと考えられています。こうした事態を避けるために、外国の畑作地帯では古くからそれぞれの国に応じた土地利用、農法が発達してきた。しかし、日本では畑作を主体とした大規模な土地利用型農業は未熟であり、(耕地が狭いこともあって)畜力の利用すら未発達でした。土地利用とは、人間と土地(環境)との相互関係性とも言えます。開拓者は当初、圧倒的な自然の営みの前に叩きのめされました。しかし、人間が増え、人力でそれを制御できる段階になると、今度は自然に対して無制限な収奪を続けるようになります。そして歳月を経て、再び土地(環境)から強烈なしっぺ返しを受ける。また、開拓事業によって森林の伐採、原野の開墾が進むと、河川の決壊が増えてきました。移民は大正9年をピークとして減少しはじめます。


明治33年に樹立された「北海道10年計画」は日露戦争で空中分解します。明治43年からの第1期拓殖計画(10年計画)では、当初の予算の3倍という巨額の費用を投入しますが土木事業中心の施策から産業施設へと重点が移ってきました。大正半ばから移民は減少して反対に北海道を離れる者が増加し、日露戦争後南樺太への移住が目立つようになってきます。続く昭和2年からの第2期拓殖計画(20年計画)では、農耕地158万haの開墾、移民197万人を目指して人口600万人を目標としますが、前半は恐慌と冷害凶作の連続、後半は戦争にまきこまれて空中分解することになりました。


第2次世界大戦敗戦により、樺太、千島、満州からの引揚者、さらに東京大空襲の罹災者たちが、北海道に移住します。これらの移民は集団帰農者と呼ばれるようになり、昭和20年7月から11月までに約1万7千人が入植していますが、土地の条件も悪く、農業経験の乏しさ、携行資金の少なさもあって定着率も悪かったようです。


昭和25年に北海道開発法が制定され、北海道開発庁が発足。総合開発の対象として北海道が再度見直されることになり、日本再生のため、北海道開発は国が行うようになりました。翌年、北海道開発局が設置。昭和27年からの北海道開発計画第1次5カ年計画。続いて昭和33年からの第2次5ヵ年計画を実施。開拓農政は一般農政の中に移行していくことになります。




さて、以上、簡単ながら北海道開拓の歴史を述べてきました。明治維新前後の北海道人口は、アイヌが2万人前後、和人が10万人前後と推定されています。現在では人口562万人余り(平成18年)。戦後の開拓も効果をあげましたが、やはり北海道の開拓は明治維新後の約半世紀でその骨格が出来上がったと見るべきでしょう。なによりも開拓者の血の滲むような格闘こそが現在の北海道を築いたといっても過言ではありません。


不毛の原野をわずか130年の短期間で一国にも匹敵する素晴らしい地域に造りあげたことは、世界的にも例がないとも言われています。日本が2千年かかつて創りあげてきた農業の歴史を、わずか百年そこそこで駆け抜けたとも言えます。 圧倒的な自然の営み、あらゆる辛酸を乗り越えてきた開拓者魂、そして、農業土木というわが国独自の技術体系。それらの見事な結実が、生産量日本一の水田とともに世界に誇るべきこの美しい北海道の田園風景を生んだと言えるのではないでしょうか。