title

01
■鍋島幹

 その歴史的幻想が現実味を帯びてきたのは、安積地方(安積疏水)と同じく、明治に入ってからでした。

 鍋島幹―――維新直後から明治13年までこの地の開拓に尽くした初代栃木県令。この地へは24歳で赴任しています。彼はその後、青森県、広島県知事などを歴任し、勲一等瑞宝章を授与されています。

鍋島幹は後述する那須疏水の完成時にはすでに青森県に赴任していましたが、この地に大きな足跡を残した人物です。

 明治9年11月のことでした。彼は那須地方の有力地主らを召集し、地租改正の説明の後、座談の席上で「大運河構想」なるものを打ち出しました。これは那珂川上流から那須野ヶ原原野を横切って鬼怒川につなげ、灌漑用水に利用すると共に、会津地方と東京を舟運で結ぶ物資の大動脈を造ろうというもの。

 人々を驚かせたのは、規模の壮大さもさることながら、この内陸部で運河を造るという奇抜な発想だったと思われます。当時、まだ東北本線のない時代でした。確かにこの地の豊富な木材や特産物が水路を通して東京と直結すれば、経済効果は計り知れません。また、殖産興業を勧める明治政府の国策とも合致する妙案でした。


 鍋島の名が示すように、彼は佐賀・鍋島藩の家老の出身。佐賀は、佐賀江、八田江、本庄江など運河の利用の盛んなところでした。また、最後の藩主・鍋島閑叟(幕末四賢候の一人)による激烈な教育制度をくぐり抜けてきているはずですから、相当の学識もあったのでしょう。


 地元への衝撃は大きなものでした。とりわけ大きな影響を受けたのが、地元の有力者であった印南丈作と矢板武でした。この構想を実現するための二人の精力的な闘いが始まります。


  • 02
    ■印南丈作
  • 03
    ■矢板 武

04

 会合の1ヵ月後には、数名の有志とともに積雪の中、運河予定路線88kmを踏査、自費で測量を行い、構想を固めました。設計書類は調書14冊、平面図3枚、断面図9枚。それによれば計画は水路延長約45km、高低差353m、河川横断5ヶ所、水門52ヶ所、橋梁61ヶ所、総事業費は16万5000円。もちろん、地元の手におえるような規模の工事ではありません。彼らは鍋島県令とともに政府に働きかけます。

 当時、河川などの国直轄事業の年間総予算は約100万円に満たない時代でした。それに隣の福島県では、すでに安積疏水の国直轄工事が決定していました。安積疏水も40万円を超す巨大プロジェクト。

 しかし、印南と矢板の二人は請願運動で上京した折、内務卿伊藤博文と観農局長松方正義が安積疏水起工式に出席するのを聞きつけます。知ったのは出発の前日でしたが、直ちに面会を求め、起工式の岐路、那須野ヶ原を巡覧されたい旨を懇願。松方も後で電報を打つことを約束しました。しかし、日程に変更があったりして、二人は内務卿一行の旅先まで追いかけます。そして岐路、伊藤・松方の同行を請い、遂に引きずるようにして那須野ヶ原まで迎えることに成功。明治12年11月14日。那須おろしの寒風をさえぎるように囲った人垣の中で、運河開発の説明をするという那須野ヶ原の開拓史上、特筆すべき一頁を飾ったのです(写真参照)。


05
■烏ヶ森で説明を受ける伊藤博文と松方正義 <草野栄龍画>(西那須町郷土資料館提供)

 しかし、松方正義の言葉は意外なものでした。「運河も大切ではあるが、この地は欧米型の大農場経営が適している。早く土地を取得して開墾事業に着手するように」。

 並み居る関係者達はさぞかし落胆したことでしょう。

しかし、この松方の示唆が那須野ヶ原の運命を微妙な方向へ導き始めます。

 やや脇道にそれますが、この松方の言葉の裏にある真意を探ってみましょう。


06

back-page next-page