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 いよいよ、有史以来一度も鍬が入ったことのない土地に、開拓の狼煙が上がることになりました。しかし、水がないことに変わりはありません。土壌や気候条件も過酷でした。地表をおおう火山灰、夏期の雷、日照時間も少なく、冬は北西の激しい季節風に見舞われます。乾ききった土地にまいた種は、土ごとに吹き飛ばされ、もともと薄い表土層は、ますます薄くなっていきます。それに水がなくては、開拓者の生活も家畜の世話もままなりません。


 とりあえず、運河の開削よりも飲用水路の開削の方が先決だということで、三島、印南、矢板らは、飲用水路として小規模な水路開削の計画を政府に願い出ましたが、県の直轄工事として明治14年10月の着工。途中、資金不足などで中断の後、翌15年の11月には約15kmが完成しました。政府の認可が下りなかった背景には、大蔵卿・松方正義による有名な「松方デフレ」(緊縮財政)があげられます。

 その後も、この水路は破損を繰り返し、毎年改修を余儀なくさせられました。関係者らの悲願は、なんと言っても灌漑用水路の開削です。

 印南、矢板らの猛攻とも言うべき嘆願活動が始まります。上京すること6回。滞在期間は延べ238日。ありとあらゆる上級官職に面会し、辛抱強く説得を続けます。太政官では、重要案件は11名の参議によって合議されますが、賛同しない参議の家に毎朝訪れ、7日目に賛同を得たなどという話も残っています。

ついに明治17年7月6日、国費開削を前提とした試削工事の許可が下ります。

 そして、試削工事がほぼ完了した同18年4月、灌漑用の那須野原疏水工事が国の直轄工事として実施されることが決定したのです。


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■南一郎平

この工事には、安積疏水を担当した南一郎平、同じく実際の開削工事を請け負った大分県の石工集団150人が乗り込んでいます(大分の石工技術に関しては、当サイトの「水土の巧」を参照)。


 こうした優秀な技術者集団の尽力もあって、工事は着工式の明治18年4月15日から、ちょうど5ヵ月後、延長16.3kmの幹線水路が完成、同年9月15日に通水式を迎えるという驚異的なスピードで完了しました。

幹線水路から各農場へ配水する分水路も官費で行われることとなり、同19年、第一分水から第四分水が完成、その後、縦堀、西堀の追加工事もあって、分水路の総延長は96kmに達しました。


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■那須疏水の採取の取入口(西那須野町郷土資料館提供)

 こうして、日本三大疏水のひとつに数えられる那須野ヶ原疏水は、5年に及ぶ地元の壮烈な請願運動と、わずか5ヶ月という短期間の工事で完成を見ることになりました。

その後もこの那須疏水は、発電などに利用されたり、黒磯駅では蒸気機関車の給水源になるなど、地域の発展に計り知れない恩恵をもたらしました。


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■那須疏水本幹水路

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