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 さて、極端な緊縮財政を強いた「松方デフレ」の時期に遭遇したにもかかわらず、このような大事業が実現した要因は、むろん印南、矢板らの請願運動によること大ですが、当時、すでに政府の要人が相次いでこの那須野ヶ原に農場を持っていたことも少なからず影響したに違いありません。

三島、印南らに土地の払下げが行われたのは明治13年のことでした。翌14年には、当時、大蔵卿の佐野常民、内務大臣の大山巌、農商務卿の西郷従道、外務大臣の青木周造が大農場を開設。同16年には内務大臣の品川弥二郎、17年には内務卿の山形有朋なども開いています。


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■現在の千本松農場(蓬莱殖産)

 この那須野ヶ原に農場を持った華族たちに共通して言えることは、彼らのほとんどが渡航、或いは海外留学の経験を持っていることです。彼らが欧州貴族の影響を受けて広大な農場を持ち、牧畜を含む欧州式の農場経営を夢見たことは想像に難くありません。これらの、いわば華族農場は明治期の北海道にも多く見られます。

しかし、これらの大農場のほとんどは経営難によって行き詰まり、明治期のうちに解散、もしくは売却しています。かろうじて残った大農場も戦後の農地解放の波にさらされ、昭和30年にはほとんど姿を消してしまいました。


 日本の近代化に計り知れない役割を果たした「岩倉使節団」の報告。そして、当時の欧州で学んだ日本のリーダーたちも、こと欧米式の大農場経営に関しては、失敗に終わったといえるのではないでしょうか。


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■畑作風景(昭和20年代 黒磯市)

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