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泥田地帯から有数の穀倉地帯へ劇的な変貌を遂げた射水平野 富山県 -射水平野農業水利事業-
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「朝床に聞けばはるけし射水川朝漕ぎしつつうたう舟人」



松川除
 
松川除
松川除
 この歌は、奈良時代に越中の国主として赴任した万葉集で有名な大伴家持が詠んだ歌です。射水川とは今の小矢部川のことで、当時から舟で往来できるほど水量が豊かであったことが伺えます。この小矢部川は、明治末期まで河口付近で庄川と合流していました。幾筋もの庄川の分流、支流が河口付近で合流し、小矢部川に流れこんでいたため、庄川の洪水の影響をまともに受け、射水平野に大きな被害をもたらしていました。そこで、寛永10年(1670年)当時の加賀藩領主、前田綱紀が堤防を築き最初の分流工事を行いました。この工事は大変な難工事で、40年後に完成し、近世に行われた治水工事の代表例として全国の注目を集めました。この時造った堤防のことを松川除(川除とは堤防の事)と呼んでいます。
 その後幾度となる洪水により、堤防を破られてはまた築き直すという努力が営々と続けられてきました。堤防は霞堤と呼ばれる独特の構造で、一番堤の後に二番堤、二番堤の後に三番堤を築くもので、一番堤が切れた場合、二番堤が流れを受けて下流で本流へ戻すという仕組みでした。
歌に詠まれたのどかな射水川も、ひとたび牙を剥けばあたり一帯を洪水で飲み込むという厳しい側面も持った暴れ川でもありました。

富山県 ―射水平野農業水利事業