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戦後の国営事業










 

 

 

 


1.鹿島南部の誕生

図−1 国営鹿島南部位置図

 茨城県水戸市の東方の海岸から南、神栖市 の利根川河口に至る、凡そ60キロメートル 余の太平洋に沿い、西の堺を北浦〜利根川 とする細長い地域が鹿島郡で、その海岸が 鹿島灘です。平成の大合併により平成17 年5月8日鹿島郡の神栖町と波崎町が合併 し神栖市となりました。ここに紹介する国 営鹿島南部農業水利事業の受益地は波崎町 1町の内にあり、事業が合併前に行われま したのでここでは合併前の町名を用いて記 述します(図−1)。
 鹿島南部とは文字通り鹿島郡の南部のこ とで、概ね神栖町と波崎町に該当します。
 鹿島灘の中央やや南に位置する鹿島町に有名な常陸国一の宮鹿島神宮が鎮座しています。鹿島神宮は鹿島台地にあり、その台地の南方は凡そ6千年前の縄文海進期には、霞ヶ浦に連なる湾状の美しい海でした。この海に川によって運ばれた内陸の土砂や沿海流が運ぶ砂が内湾に沈積(冠新世沖積層)し、これが海退期が終りに近づくと遙か彼方の銚子半島(千葉県)に向かって幾つもの沖洲となって現れ、段々と成長して陸地を形成するというプロセスを経て、下総台地との間に内海(信太の流海)を残して食卓用ナイフのような型をした大きな陸地が生成されたと考えられています。陸地となってからも強風によって砂が移動したり、海岸からの飛砂により数十メートルの砂丘が幾つも形成され、その間には擂り鉢状の低湿地が生まれました。
 この砂丘地の最南部地域にも古代から人が住み始め、長い年月を経て「谷田部」、「遠下」と呼ばれる村が幾つかの集落で形成されてきます。その集落の暮らしを「波崎町史」は「集落に近接して水田耕作や畑作農業の営みがあったことは、一般的な現象として理解されておりながらも、砂礫によって占められた当地方の水田の開発や水路の掘削などの土地利用には、現在我々には凡そ想像もつかない労苦が伴っていたと思われる。したがって稲作、あるいは畑作は、あくまで副業的な性格を有し、主たる経済活動は、魚貝類や鳥獣などに依存していたのではないだろうか」と解説しています。即ち、漁業によって大いに栄えますが、開拓は僅かな低湿地に限られ、水に乏しく草木なき砂丘地はなかなか人を寄せ付けず、本格的に開拓されるのは近世(江戸時代)、それも中期以降になってからのことです。

図−2 近世後期村落と新田
 江戸時代に多くの人々が砂丘地 の開拓に立ち上がりました。波崎 町域の新田(新田とは江戸時代の 開墾をいい、畑であっても新田と いう)では北から南に向かって柳 川新田(弘化2年(1845)開墾開始)、 太田新田(延享元年(1744)開墾開 始)、須田新田(文政3年(1820)開 墾開始)、があり、谷田部村、東 下村(万治2年遠を東に変更)の古 村の人々も堺(のちに沖)新田、手 子崎新田(元禄15年以前に開墾)を開拓しました。柳川、太田、須田何れも開拓団リーダーの苗字です。しかしどの新田開拓も平坦な道を辿ったわけではありません。幕末に近い弘化2年から柳川新田の開墾が始まりますが、その様子を「柳川新田由来記」は次のように伝えています。「若松村は鹿島郡の東南部に位し西方利根川の下流を隔てて千葉県と対し東は鹿島浦にして渺茫たる太平洋に面す。而して同村大字柳川新田は往時日川村地先にして西方広漠たる不毛の砂漠を負い広?数里の間一木一草を見ず強風の際は往々人畜砂煙の渦中に殪るることあり俗に日川砂漠と称せし処なり。隣接余里の地に須田新田太田新田の二部落あるも当時人家稀少にして此の地は殆ど不毛の地を相したり・・・」と(波崎町史料T)。文中若松村は須田新田、太田新田、柳川新田が合併して若松村となり、日川村は神栖町の内です。また「太田新田沿革」を見ると太田新田は波崎町域の約三分の一にあたる2千余町歩の広大な地域で進められましたが、年貢を上納できたのは311町歩で、しかもその内の308町歩は下々畑及びそれ以下の極めて生産性の低い畑でした。新田開拓は年月を要し、その間志半ばにして亡くなるもの、或いは脱落する農民そして資金不足に陥いることもあり、特に砂丘地帯の開拓は防風林育成に年月もかかり極めて難しいのです。
 苦難の連続でしたが不屈の闘志を以て人々は営々として開拓を続け、新田を拓き、あるいは砂原に戻った畑を再び畑に戻し、明治初期の地租改正では、実に水田848町歩、畑694町歩計1,542町歩(1,527ヘクタール)の耕地が誕生しています(近世開拓地には何処も地主・小作の問題がありますが、そのことは省きます)。寛永10年(1,633)の東下・谷田部両古村の石高は309石で、耕地面積に換算すると検地時の縄伸びなど考慮しても300町歩前後と推定されますので、江戸時代に凡そ1,200町歩が新田開発され、これは波崎町の耕地2,349ヘクタール(昭和33年)の二分の一にあたります。明治以降も開拓は地道に続けられ、そして太平洋戦争後、開拓事業により海軍爆撃試験場跡地300ヘクタールを筆頭に各地で開墾が行われました。
 なお、昭和3年東下村は波崎町となり、同30年谷田部村が、翌31年太田新田の一部を除く若松村が波崎町に合併しました。

2. かんがい用水導入に向けて

 これまで述べてきましたように鹿島南部の農地は大半が砂丘地を開墾したものです。故に農家は多大の費用をかけて地下水を汲み上げてかんがいし、陸田では田面を深く掘下げ、利根川の河床土を客土して水保ちを良くし水田とする「掘り下げ水田」など、先達の残した貴重な田 畑を苦心に苦心を重ねて維持し農業を営んできました。しかし、旱天が少しでも続くとたちまち地下水は涸れてしまうので、安定した農業経営は望むべくもありません。
 戦後の昭和25年、食糧増産対策が国策として進められている時、鹿島南部の人々も国策に沿って農業生産性向上から新しい農村建設を目指し、「鹿島南部農業水利事業促進協議会」を発足させ、北浦(霞ヶ浦と鹿島灘の間にある湖)に水源を求め、鹿島町、息栖村、軽野村、波崎町、谷田部村、若松村の水田1,800ヘクタール畑3,350ヘクタール合わせて5,150ヘクタールの農地にかんがい用水を引き、水稲、陸稲、甘藷の増産、米に換算すると6万2千石(粗収入6億円余)を増産し、農家経済を向上すべく、茨城県に水利事業の実施を求めて運動を開始しました。茨城県は直ちに調査計画に着手し、3年後の昭和28年、国営事業の規模は備えていましたが県の特別な大事業として位置付け、特殊県営鹿島南部農業水利事業として採択し、大きな期待のもと翌年から工事が開始され、用水導入の第一歩が踏み出されました。
 ところが事業の農家負担金の問題が待ち受けていました。事業規模から見て効果発現が遅くなり事業費の農家負担(概ね2割)額が嵩み、これが農家経済を圧迫するのではとの懸念が受益農家を躊躇させ、そのため事業は進捗せず、数年にして休止状態に立ち至ってしまいました。促進協議会、県は農家負担軽減策を模索し、その結果、農家負担金は事業効果が発揮される事業完成後に償還(2年据え置き15年年賦)すればよい国営土地改良事業で基幹施設を造成することを最善策とし、昭和35年5月30日に国に対し事業申請を行い、事業継続の目途をたてました(末端受益面積の規定から付帯県営事業、付帯団体営事業もあります)。

3.鹿島灘に大コンビナートを建設する

 一方、時を同じくして昭和35年4月、茨城県は神栖町、鹿島町、波崎町を対象として大規模臨海工業団地を建設する「鹿島灘沿岸地域開発の構想」(以下「鹿島開発」と略称)を打ち出しました。この年12月には第二次池田内閣が「国民所得倍増計画」を発表したほどに、日本経済の発展はめざましく、企業は挙って工場立地を求めている時代で、時勢を捉え後進県を先進県に飛躍させようとする、これも雄大な構想と云えます。この鹿島開発の骨子は、鹿島南部に広がる約11,700ヘクタールの広大な土地と霞ヶ浦に上工水を依存する重工業主体の大コンビナートと付帯する30万人都市の建設です。この鹿島開発事業では、約8,500ヘクタールに及ぶ農地等の民有地の買収が必要でした。
 鹿島開発に農地を売却した農家は「農業経営改善対策事業」−これは、耕地面積の減少と兼業化の進行を前提に、都市市場を対象とした商品生産農業の経営、即ち従来耕地の広さによった農業所得を、耕地の広さに依存しない集約的経営に転換することによって、今まで以上の農業所得を確保する−という事業に参加することにより、工業団地外縁に整備された代替農地を買い入れ営農を続行することができます。これを「農工両全」と云い、工業団地開発と農業振興の両立を目指す鹿島開発の大きな柱の一つです。
 この鹿島開発地域と国営かんがい事業受益地は約半分にあたる2,700ヘクタールが重複していました。その重複する農地では農工両全により農業振興が図られます。とすれば国営かんがい事業の必要はないので受益地の除外とそれに伴う事業計画を根本から見直し、昭和36年12月変更計画書を作成して事業を継続したい旨申請しました。しかし受益者の中には動揺もあり事業継続には至らず昭和37年3月に至り国営かんがい事業の申清書を県は取り下げ、この国営事業は中止となりました。

 

 波崎町は鹿島開発の工業用地、代替農地、住宅団地等を誘致し、町はこの鹿島開発を契機に、「新たな活力と文化の創造」をスローガンに工業、農水産業はもとより各種産業の均衡ある発 展と文化の香り高い町作りに取り組み始めました。
 波崎町には鹿島開発地域外で2,466(水田885 畑1,581 )ヘクタールがよくまとまった形で存在し、これは町域68.77km2の36%にもなります。この2,466ヘクタールの農業地域についても鹿島開発隣接の都市近郊農業地帯として振興をはかることは、町のスローガン実現のためにも極めて重要な施策です。
 ではまず国営鹿島南部農業水利事業(以下「国営鹿島南部」と略称)を着工した昭和40年代の波崎町の農業についてその概要を見てみましょう。農地は利根川沿岸の低地部と砂丘上にあるものとに大別されますが、殆どは砂丘農地です。従来、砂丘農地では、米、甘藷、麦、豆類、が多く栽培されてきました。米は陸稲が主でしたが、昭和36年頃から茨城県農業試験場指導のもと若松開拓地でビニールを敷きこみ、水漏れを押さえた「ビニール水田」による水稲作に成功し、以来急速に普及しました。畑作については戦後の昭和20年代にピーマンが導入され、続いてメロン、スイカ、菊などのハウス栽培が普及し、高品質作物の生産量が大きく伸び、澱粉用甘藷は生産が無くなり、代わりにたばこが普及しましたが、これもハウス園芸等他作物に移行する農家が多くなったのが昭和40年代です。そして波崎町には生活に潤いを添える園芸特産物が二つあります。一つは活花に人気の「千両」(赤や黄色の小さな実を沢山つける可憐な植物)で、もう一つはその相方に相応しい「若松」です。お正月の門松でもあります。町の花であり木であり、全国に出荷されており、ブランド商品として定着しています。
 昭和37年12月には利根川対岸銚子市との間に銚子大橋が開通し、千葉、東京の大消費地への時間的距離がグンと縮まり、農水産物出荷に有利な条件が一つ加わりました。
 昭和38年11月鹿島港が起工され鹿島開発も本格的に始まり、それに連れて人口が増加しつつあり、生鮮野菜や花卉の需要増加が大いに期待できます(神栖町と波崎町の昭和40年の人口4万人、現在は9万5千人)。

写真−1 ピーマンのハウス
栽培 (撮影 小林一成)

写真−2若松
(撮影 小林一成)

写真−3千両
(鹿島南部完工記念写真集)

 この様に波崎町農業を取り巻く環境は向上しつつあり大きな将来性を秘めていました。品質の良い野菜類を量と時期を守って市場に安定出荷する先端的農業経営にはいつでも利用できる用水が不可欠です。ビニール水田も例年の如く用水不足が発生しているため、安定した用水補給は経営安定の要です。
 水田の用水安定、畑地帯に於ける高生産性農業を目指す波崎町及び関係農家は再び国営かんがい事業導入に向け立ち上がりました。農林省、茨城県はかんがい用水導入計画を約2年かけて作成、この計画をもとに関係農家の方々は昭和42年5月農林大臣に国営土地改良事業の施行申請を行いました。これを受た農林省は更に詳細な実施計画を纏め、取水施設、幹線水路等基幹施設を国営事業で造成し、支線水路等を付帯県営事業で造成することとし、土地改良法など諸般の法手続きを行って昭和43年度から国営鹿島南部に着工しました。受益農家の方々も事業申請に続いて土地改良区設立を進め、昭和45年8月15日「波崎土地改良区」を設立し、事業推進の地元体制を整えました。
 国営鹿島南部の実施概要は次のとおりです(図−3・図−4 参照)。
 ○常陸川水門(補注1参照)の上流850mの常陸川左岸に取入水門、約100mの導水路及び揚水機場(ポンプ場)を建設します。受益地の一番高いところに幹線水路を建設します。揚水機場と幹線水路を繋ぐ送水管路を布設します。常陸利根川から取り入れた用水はポンプで送水管路を通して幹線水路に押し上げ、幹線水路を自然流下させます。付帯県営事業で支線水路を布設し、末端に加圧機場を設けます。幹線水路から分水し加圧機場で加圧した用水を、更に県営圃場整備事業及び県営畑地帯総合整備事業によりパイプラインを布設し、個々の水田、畑地、ハウスに引き込み、スプリンクラーや水栓で農作物にかんがいします。

図−4 かんがい方法説明図

 ○国営鹿島南部の特徴の一つに償還金の支払い方法が あります。受益地は田畑共に圃場整備(区画整理)がな されていないことから、国営鹿島南部に合わせて県営 圃場整備事業及び県営畑地帯総合整備事業を実施しま す。このとき区画整理において農地面積の15%の共同 減歩(個人に返さない土地)をして土地を生み出し、こ れを売却して国営、県営事業の農家負担金の一部に充 てるものです。
 なお、波崎町も償還金の一部負担をしています。
 ○石油ショックに起因する建設資材の高騰などからの 事業費の増加、波崎町都市計画事業との調整等から昭 和60年度から平成元年度にかけて事業計画の変更を 行いました。変更後の事業概要は次のとおりです。

 

 

 全体実施設計

昭和41年度〜昭和42年度

 

 事業着工

昭和42年10月

 

 事業完了

平成4年3月31日

図−4かんがい方法説明図

 関係市町村

波崎町

 

 関係土地改良区

波崎土地改良区

 

 受益面積

水田676Ha,畑1,609Ha,防風林その他322Ha,計2,607Ha

 主要造成施設

取水・導水施設

取水樋門1ヶ所,最大取水量,毎秒6.05m3

 

 

鹿島南部揚水機場までの鋼矢板導水路106m

 

鹿島南部揚水機場

建屋鉄筋コンクリート構造平屋建て515m2

 

 

ポンプ口径700mm,2台口径900mm,2台計4台

 

送水管路

揚水機場〜幹線水路始点までの1,727m

 

幹線水路

上流から鉄筋コンクリート開水路5,108m、鉄筋コン

 

 

クリート暗渠6,079m、プレストレスコンクリート管

 

 

水路1,745m,水路計12,932m

 

その他施設

水管理施設、分水工8ヶ所、余水吐放水路3ヶ所

 関連事業

付帯県営かんがい排水事業

鹿島南部地区(この県営事業は、幹線水路から加圧機場までの間の水路と用水を加圧する加圧機場を建設する)。

 

県営圃場整備事業

波崎西部地区、波崎西部二期地区、波崎中部地

 

 

区(水田地帯区画整理と共に末端のかんがい施設を整備)

 

県営畑地帯総合整備事業

波崎東部地区(畑地の区画整理と共に末端かんがい施設を整備)

 

建設省(国土交通省)

常陸川水門建設工事

 

水資源開発公団((独)水資源機構)

常陸川水門改築工事

写真−4 受益地
(鹿島南部完工記念写真集)

写真−5農業用ハウス
(鹿島南部完工記念写真集)

写真−6 鹿島南部揚水機場と導水路
(鹿島南部完工記念写真集)

写真−7 幹線水路
(鹿島南部完工記念写真集)

5.21世紀の鹿島南部農業

 国営鹿島南部が完了して早20年余が経ちました。その後の農業の様子を管見してみましょう。事業完了(平成4年)と13年後の平成17年(神栖町と合併により平成18年以降は旧波崎町のみのデータは公表されていないため合併時の17年と比較します)の農家戸数、耕地面積及び特産品の野菜・千両・若松の産出高は次の通りです。

@ 農家戸数は20%近く減少していますが、耕地面積は横ばいに推移しています。
A 主力産品のピーマン・若松・千両の産出額は約18%伸びています。平成22年を100とする関東地方の総合物価指数は平成5年が101.6%平成17年が100.5%で、物価変動は殆どありません。従ってこの主力3品目の伸びは生産高の増加と云えます。これは農業生産性の向上にほかなりませんが、中でも年を通じて生産する施設園芸のピーマンは品種改良、温度管理と相俟っていつでも充分潅水できる用水施設があることが大きく与っています。
B 平成23年農林水産統計によれば、農業産出額で茨城県が全国一位の農産物は11品目ありますが、ピーマン、切り枝(千両・若松)の2品目が入っています。

 東下村、谷田部村の周辺に17世紀半ばまで広漠たる砂丘が広がっていた鹿島南部。そこに両村の人びとや先覚者が鍬を入れ槌音高く開拓に邁進してきました。これを引き継いだ人びともまた肥えた土地とするための土地改良あるいは生産性向上等各方面に惜しみない努力をしてまいりました。そして今、二つも日本一の特産物を生産する、抜群の都市近郊農業地帯に発展を遂げました。これからも高品質の色鮮やかなピーマンや見る人の心を和ませる千両、若松の生産を通じて鹿島南部農業の名は夙に高まっていくことでしょう。

参考文献