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戦後の国営事業










 

 


1. はじめに

写真−1 新利根川沿岸穀倉地帯
  (新利根川沿岸完工記念写真集)

  茨城県南部の北相馬郡利根町、稲敷郡河内村、同新利根村、同東村、同櫻川村の一町四ヶ村(現在は河内村は河内町に、新利根村、東村、櫻川村、江戸崎町は合併して稲敷市となりました)にまたがり、南縁と西縁を大河利根川、北縁を稲敷台地、東は霞ヶ浦南端に接する、凡そ8千余ヘクタールは県内有数の農業地帯です。東西約30q、南北2〜3qの細長い地域で、ほぼ中央を新利根川が貫流しています(図−1)。この新利根川の中・下流地域の河内町、新利根村、東村、桜川村の水田(以下「この地域」と略称)は標高が数メートルと低平地なため、雨が降るたびに湛水して、何日も引かず、新利根川もしばしば溢水して家屋、作物に大きな損傷を与え、暮らしを妨げてきました。

写真−2 新利根川
(小林一成撮影)

 その故にこの地域の農民の願いはただ一つ、水害のない安心して暮らせる農村の建設でした。人々は幾多の対策を講じてきましたが、資力にも限界があり水害の抜本的改善には手が届かず、そのため長い間生産性の低い農業を余儀なくされてきました。

 第二次世界大戦(以下「大戦」と略称)後の食糧増産政策としてこの地域が初めての国営農業水利事業として採択を見、昭和21年から事業が行われ、その後も昭和56年度から生産性の一層の向上を図るため二度目の国営農業水利事業が実施されました。この二度の国営事業と関連土地改良事業が相俟って新利根川沿岸が近代的かんがい排水施設を有する穀倉地帯となるまでの概要を紹介します。

図−1 新利根川沿岸水田地帯位置図(市町村名は平成元年時点)
(作成 小林一成 地図 昭文社supermapple)

 

2. 本地域の黎明・・・そして新田開拓

  はじめにこの地域の成り立ちを簡単に紹介します。「常陸国風土記」信太の郡(しだのこおり)の条に「信太の郡は、東は信太ノ流海、南は榎ノ浦(えのうら)の流海、西は毛野の河、北は河内の郡である」と書かれています。この榎ノ浦の流海とは内海のことで、この地域はその中心にスッポリと入ります。信太ノ流海は霞ヶ浦のことで、東とは現在よりはるかに南まで海だったからです。榎ノ浦の流海には下毛野国から流れ来る大河、毛野の河(現在の鬼怒川)が注ぎ、その運土作用により除々に陸化が進み、風土記の書かれた8世紀初頭には現竜ヶ崎市須藤堀町あたりまで陸化していました。榎ノ浦の流海の北方には東西に信太丘陵が広がっていて人々が暮らしていました。河内町字 生板(なまいた)に妙行寺という古刹があり、大同元年(806年)の開基と伝えられています。お寺を開くということは人が住むということ。奈良の都が京に移って間もない頃、この地の人々は信太の台地から榎ノ浦の流海を見渡して砂州を見つけては、洪水にもめげず開拓に乗り出していったに相違なく、よって9世紀初頭辺りを榎ノ浦の流海つまり新利根川沿岸地域の黎明期と位置付けることができると思います。

 その後長き年月を経て陸化が進み、室町時代に源清田(げんせいだ)、長竿、金江津 (かなえつ)(何れも河内町)の集落が拓かれたと伝えられています。そしてこれら古村の周囲はまだまだ湖沼の点在する広大な葦原が広がっていました。

 その葦原で新田開発が大いに進められたのは戦国時代末期から江戸時代中期にかけてです。霞ヶ浦東南部と利根川の間(東村(現稲敷市)及び千葉県佐原市(現香取市)の利根川北岸部地域)には加藤州、上之島など16ヶ所に州が発達していました。徳川家康は天正18年(1590)先ず上之島の新田開発を許可し、以後寛永15年の扇島新田まで、概ね50年をかけて新田開発が進められました。このうち国営事業の受益地に、東村分の結佐、六角、上之島、西代、中島、卜杭 (ぼつくい) の6新田村が入っています。その西部、現利根町、河内町、新利根村(現稲敷市)にも新田村が沢山起村しました。開拓はなお各地で続けられ、泥田ながら近世を通じてこの地域の7割程度が開拓されました。村落の凡その位置を図−2に示しました。

図−2 新利根川沿岸と十六島新田(江戸時代中期を想定) (作成 小林一成)

 

3.江戸湾から銚子へ・・・利根川の東遷工事と新利根川の開さく

 ● 利根川の東遷工事

 江戸時代初期の元和7年(1621)年時点では、利根川及び渡良瀬川は江戸湾に流入していました。天正18年(1590)8月江戸に封された徳川家康は文禄元年(1592)四男忠吉を忍城(行田市内)に配し、忠吉は同3年から忍領内の開田のため利根川の瀬替えを始めました。慶長8年(1603)幕府開府後は江戸を洪水から守ることや新田開発を主目的にこれを引き継ぎ、承応3年(1654)まで約60年をかけて、鬼怒川の支流の常陸川(現古河市にあった大山沼等が源流)に利根川・渡良瀬川を合流させました。これが徳川幕府の利根川東遷工事と呼ばれるものです。この利根川東遷工事により利根川は鬼怒川と合流し、銚子で海に注いだわけです。利根川東遷工事の一環として江戸川を開鑿し分水しましたがこれは主に利水・舟運のためで、洪水を流すためではありませんでした。鬼怒川に常陸川を通じて利根川、渡良瀬川の流量が加わったため下利根川(布川地点より下流)は流量が倍増し大河となりました。「下総國 𦾔 (きゅう)事考」に寛文 (かんぶん)7年(1667)より布川から佐原まで公帑 (こうど) (幕府資金)をもって堤防を修築したと見えますが、この堤防では防ぎきれなかった洪水も数多くあり、近世から明治時代を通じてこの地域を含めた下利根川沿岸は水害多発地域となってしまいました。

 ● 利根川の改修工事

 明治14年、陸軍が調製した地形図を見ますと下利根川の当時の流路は蛇行がはげしかったことがわかります。また、この地域内にも平須沼(東村平須)など大きな沼が三つ四つ残っており、全体として30%ぐらいは沼や葦原の未墾地であったことが読み取れます。この利根川がほぼ今の流路に改良されたのは明治33年から昭和5年にかけて内務省が3期に分けて実施した中下流改修事業によります。その第2期工事として明治40年から昭和5年にかけて取手地点から佐原地点までの浚渫・堤防築立・蛇行修正が行われました。
 その後も土砂堆積により中州が生じ、昭和30年代にその浚渫が実施され、この地域ではその土砂をポンプ船やトロッコで沼やクリークに客土し、耕地整理事業と並行して開田が行われました。

 ● 新利根川の開鑿

 この地域の中央を縦断して東西に流れ、霞ケ浦最南部に注ぐ川が新利根川で、国営事業受益地の用水を賄い、また排水を受け持つ重要な河川です。
  この新利根川は人工河川で、寛文2年から6年(1662年〜1666年)にかけて開鑿されました。その位置を現在地名で云えば、流頭は利根町押付新田の利根川と小貝川合流地点で、河内町、稲敷市角崎を経て、同市上須田で霞ヶ浦に流入する延長30kmの河川です(前頁図−2参照)。現在は豊田堰取水口と水路で接続されています。前述したように承応3年(1,654年)、利根川は常陸川に瀬替えされ、常陸、下総の国境を流れ下って銚子で太平洋に注ぐことになつたわけですが、これは下流部の香取や佐原地方の沿岸の人々にとっては、お上のやることとは云え、内心は迷惑なことでした。そこで幕府は下流の香取、佐原の洪水を防止すること、更に印旛沼手賀沼の開発を意図し、新利根川を開鑿し本川は布川で締切ました。しかしこの目論見は外れ、印旛沼、手賀沼の水は涸れず、今度は新利根川沿岸の人々が水害を蒙るこ立場となりました。この開鑿はこの地域内に点在する沼と沼を繋ぐ程度のもので、水深が浅いうえ堤防も低く、また舟運もままならず、更に降雨時はたちまち溢水して沿岸にいつも大被害を与え、たまりかねた沿岸村々から廃止するよう訴えが出されました。やむなく開鑿から三年後に、新利根川流頭を閉塞し、利根川本流を元に戻しました。
 利根川本流を元に戻すとほぼ同時に今度は小貝川に取水堰を設け、左岸から取水して新利根川に接続し用水路として利用しました。この取水堰は最初は羽根野地先に設けたので羽根野堰と云いましたが、その後天保10年(1839)少し上流の豊田地先に移され、豊田堰と呼ばれるようになりました。今は鉄筋コンクリート構造の立派な取水堰に改築され、豊田新利根土地改良区の主要水源となっています。新利根川沿岸の人々は利根川としては反対しましたが、開鑿を無駄にせず、用水路兼用として利用し、度々溢水をおこす厄介さはありましたがこの地域の貴重な用水でもありました。

 

4.念願の国営事業・・・新利根川の堤防・基幹水利施設の建設

● 国営新利根川農業水利事業

写真−3 湛水した水田での稲刈り
(新利根川土地改良区提供)

 前述したように明治政府の明治33年からの利根川改修事業により、利根川からの洪水被害は一段落をみました。しかし新利根川の改修は手つかずだったため、しばしば堤防を溢水しました。またこの地域の標高は霞ヶ浦水位とほぼ同じなため、降雨により霞ヶ浦水位が上昇するとたちまち連動して新利根川水位も上昇してしまい、田からの排水が出来ず、湛水が何日も続くこと毎年の如くでした。当時の農作業を伝える貴重な写真が何枚も新利根川土地改良区に保存されており、その一枚が写真−3です。出来秋に湛水すると穂が腐ったり、芽が出たりするのでとにかく刈り入れねばならず、膝までつかる泥田での稲刈りは大変な重労働でした。

 この地域でも水利組合、耕地整理組合を設立して、排水改良に取りくんできましたが何れも田地が対象の面的なものでした。この地域の雨水の殆どは新利根川に流入するため、新利根川の改修は今や轍鮒の急であり、そこで大正7年、北相馬郡1町5村、稲敷郡1町11村の町村長は力石茨城県知事及び農商務省に県費補助による新利根川改修事業を陳情しました。これを受け、茨城県は大正11年調査を開始し、地元も「新利根川改修期成同盟会」を結成し、事業採択間近というところまで進展しましたが翌年9月に不幸にも関東大震災が発生し、そのため国庫補助の目途が立たないなどから中々採択されませんでした。結局昭和2年11月まで待つことになりましたが、当時としては大事業の「県営新利根川沿岸農業水利改良事業」の採択にこぎつけ、昭和15年までに新利根川30kmにわたる堤防構築と浚渫が行われました。

 ところがこの県営事業の実施中の昭和10年、13年、その後の16年と3年おきに3回もの大水害が発生したため農業経営は大打撃を蒙り、困窮はその極みに達しました。何れの水害も県営事業で造成した堤防を溢水し(昭和13年の観測では約30pオーバー)、排水機場も使えず長期湛水を引きおこしました。そこで中山栄一県会議員はじめ、地元リーダーの方々は惨状打開に立ち上がり、昭和17年「新利根川沿岸湛水排除期成同盟会」を結成し、国営事業による抜本的改良を目指して運動を起こしました。しかしこの時第二次世界大戦はソロモン群島ガダルカナル島で激戦があり、戦果報道が続く中その実戦況は暗転していることが漏れ伝わり、期成同盟会の運動も遠慮がちとなり、一時期は頓挫し、事業はあきらめざるを得ない状況に立ち至りました。そういう厳しい状況の中で終戦を迎えますが、戦後は状況が一転しました。即ち、百万人の引揚者の受け入れと国土復興のため、百五十万町歩の緊急開拓、既耕地210万町歩のかんがい排水事業など食料増産政策が打ち出され、新利根川沿岸が排水改良による増産効果が極めて高いことが国に認められ、大戦後最初の国営事業採択2地区のなかの1地区として国営新利根川農業水利事業(以下「国営一期事業」と略称)が採択され、昭和21年から工事が開始されました。

 この国営一期事業の計画の骨子は新利根川からの溢水防止のための堤防の1m嵩上工事及び排水機場(ポンプ場)、排水路の建設です。戦後は良質な建設資材の入手が中々大変でしたが、国はもとより県、受益者一致してこれを克服し、昭和40年度待望久しい事業の完成を迎えました。

 事業の効果は、関連の県営事業、耕地整理事業と相俟って約6万石の増産を見込んでいましたが、生産性の倍増と平須沼などの沼地やクリークの開田などから目標を大きく上回り、米麦8万8千石の増産が実現しました。

図−3 国営新利根川農業事業計画平面図
(新利根川沿岸事業誌「利水豊穣」から転写)

 事業の概要は次の通りです。

 

 

事業期間

昭和21年度〜昭和40年度

受益地域

江戸崎町、河内村、東村、新利根村、桜川村の水田4523Ha、畑655Ha、計5,178Ha

事業効果

米麦合わせて約8万8千石の増産

主要工事

 

堤防工事

新利根川堤防嵩上げ46.7km、霞ヶ浦湖岸堤防5.7km計52.5km

水路工事

用水路 十余島用水幹線、阿波用水幹線4.2km

用排兼用水路 伊崎2号幹線ほか2路線17.7km

排水路 金江津1号幹線ほか6路線27.2km

機場(ポンプ場)工事

用水機場 太田第2機場ほか6機場  総揚水量6.45m3/sec

排水機場 伊崎機場ほか6機場 総排水量36.5m3/sec

 

 

 この国営一期事業の関連事業としてこの地域西部地域で昭和26年から46年にかけて県営新利根川上流土地改良事業が実施されました。

 

 

 事業概要は次の通りです。

 

 

事業期間

昭和26年〜46年

受益面積

竜ヶ崎市、新利根村、河内村の2,163Ha

主要工事

用水機場4機場(半田、羽子騎、早井、長竿)

 

排水機場3機場(十角、古河林、堂前)

用水路整備

10路線22.3km

排路整備

8路線32km

● 国営新利根川沿岸農業水利事業

 昭和30年代から食糧に対するニーズが多様化したことから37年をピークに米の消費量が減退に転じ、政府は昭和44年産米から生産調整を始めました。この地域のような水田単作にとって転作奨励金があるとは云え、生産調整即ち減反の影響は誠に大きいものがありました。
 この様な社会の動向に即応しつつ生産性の高い、産業として自立し得る農業経営を確立するには、田畑輪換の可能な汎用耕地に整備しなおし、畑作を導入する等耕地の高度利用を図り米単作からの転換が重要です。加えて国営一期事業で建設したかんがい排水施設が老朽し機能低下が著しいことから昭和52年度から国営新利根川沿岸農業水利事業(以下「国営二期事業」と略称)の計画が始まりました。減反及び米価が低迷するなか、農家負担を伴う国営二期事業の実施を懸念する農家もありましたが、土地改良区は農業経営の向上には必要不可欠な事業なことを積極的に説明し合意を得てゆきました。
 国営二期事業は基幹的かんがい排水施設を整備する事業で計画の骨子は次のとおりです。

@ 国営一期事業で建設した施設のうち、堤防を除くかんがい排水施設、県営新利根川上流土地改良事業により建設した十角排水機場を更新し、布鎌排水機場を新設して、排水系統、用水系統を完全に分離して汎用耕地化を図ると共に用水量・排水量ともに能力アップを図る。
A 用水路は全路線パイプラインにして、施設維持管理のコストダウン、用水管理の省力化を図る。
 なお、用水受益面積と排水受益面積が異なるのは、主に新利根川上流地域の用水施設が取水施設(豊田堰)用水路とも既に完成しているためです。
 建設施設の概要は次の通りです。

事業期間

昭和56年度〜平成4年度

関係市町村

江戸崎町、東村、新利根村、河内村、桜川村

受益面積

用水及び排水受益4,070Ha、排水のみ受益2,960Ha、計7,030Ha

(1)用水施設工事

 

関係土地改良区

新利根川土地改良区

 

用水機場

用水源は総て新利根川に依存

 

 

太田・金江津用水機場、十余島用水機場、大須賀用水機場の3機場用水能力3機場計 12.72m3/sec

 

用水路

太田幹線用水路2,213m、金江津幹線用水路1,684m、十余島幹線用水路2,166m大須賀幹線用水路3,202m 計9,265m

(2)排水施設工事

 

関係土地改良区

新利根川土地改良区・豊田新利根土地改良区

 

排水機場

布鎌排水機場、十角排水機場、大須賀排水機場、金江津排水機場十余島排水機場、伊崎排水機場排水量6機場計106.8m3/sec

 

排水路

十角幹線排水路4.6km、大須賀幹線排水路5.5km、金江津幹線排水路6.2km
十余島幹線排水路5.5km、新川幹線排水路1.9km
伊崎幹線排水路0.8km、太田大須賀山手排水路9.3km、7路線計33.7km

(3)付帯県営事業

 

 

国営二期事業に付帯して、支線用水路、支線排水路、加圧機場等を「新利根川沿岸地区」が昭和59年度から平成13年度に実施されました。

 

用水機場

結佐六角用水機場ほか8機場

 

用水路整備

太田東幹線用水路ほか4幹線用水路及び本新支線用水路ほか16支線用水路

 

排水路整備

太田幹線排水路ほか7幹線橋水路及び西代支線排水路ほか4支線排水路

5.国営造成施設の紹介

写真−4  太田配水槽
内径25m高さ4.8mのPC構造、水深4.3m
太田金江津用水機場から送水され、
自然圧により1950Haに送水する。
(小林一成撮影)

写真−5  太田金江津用水機場
口径900mm出力370kw2台、口径800mm
出力620kw2台、かんがい面積1,950Ha
(新利根川沿岸完工記念写真集)

写真−6  新利根川水管橋
取水した用水を太田 配水槽に送水する。 新利根川右岸に見えるのは 太田金江津用水機場 (新利根川沿岸完工記念写真集)

写真−7  大須賀機場
口径700mm出力560kwの 用水ポンプ2台、 口径800mm出力75kw2台、 口径1350mm出力190kw

写真−8  布鎌排水機場
口径1200mm出力165kwの 立軸斜流ポンプ 3台、排水量11.2m3/sec
(新利根川沿岸完工記念写真集)

写真−9   十余島排水機場
口径1650mm出力200kw3台、
口径1200mm出力120kw2台の
横軸斜流ポンプが設置されている。 排水量24.6m3/sec
(新利根川沿岸完工記念写真集)

写真−10  十余島幹線排水路
T型〜V型鋼矢板建込護岸排水路。
水路巾9.0m水深2.0m〜水路巾17.5m
水深3.0m 延長5647m
(新利根川沿岸完工記念写真集)

写真−11  大須賀山手承水路
稲敷台地から流出する雨水を
受け入れて、新利根川に排出する。
コンクリート柵渠(小林一成撮影)

6.現在の様子

 平成24年は国営二期事業が完成して19年目になります。付帯して実施されてきた県営かんがい排水事業も平成13年度完成し、ここに抜本的整備が完了しました。国営二期事業で建設した施設のうち基幹施設(排水機場及び排水能力15m3/sec以上の排水路)は平成8年度創設の基幹水利施設管理事業により関係市町が管理委託を受け(稲敷市が代表して受託)、基幹水利施設以外の施設は管理委託協定に基づき、新利根川土地改良区及び豊田新利根土地改良区が委託を受け管理しています。
 この間、日雨量が100mmを超える大雨が7回ほどあり、また、旱天は平成13年6月下旬から8月中旬まで約2ヶ月に10mmしか降らなかったこともありましたが、湛水被害、旱魃共に発生せずに済みました。これは偏にかんがい排水施設のきめ細かい管理運用の賜であり、念願の利水豊穣の沃野で気象に左右されない農業経営が着実に展開されてきております。
 その様ななか、平成23年3月発生した東日本大震災では大きな災害を蒙りました。その被災原因は地震動自体による構造物の損傷は少なく、大半は地盤の液状化現象による地盤沈下による損傷でした。国営二期事業受益地のうち約4割に相当する3千ヘクタールに田面沈下やパイプラインの損傷が生じました。早場米地帯であり代掻期が数週間後に迫っていることから、農家はもとより土地改良区及び関係機関の皆さん直ちに田面復旧とパイプラインの応急復旧に取り組まれ大半は植え付けができましたが、470ヘクタールが残念ながら植え付けを断念せざるをえませんでした。
 国営二期事業で建設した8ヶ所の用排水機場のうち7ヶ所の地盤は軟弱地盤であるためコンクリートや鋼管の杭基礎を打設してありますので機場本体(ポンプ、建屋、水槽)の損傷は免れましたが、機場の構内敷地が地盤沈下し付帯施設が数ヶ所被害を蒙りました。排水路は、大須賀山手承水路以外の低地部排水路は重量鋼矢板を打って沈下や横倒れを防止ししたので、排水路自体の損傷は免れましたが、側道部に沈下や亀裂が発生しました。パイプラインも沈下に柔軟に対応する継ぎ手を施行してありますが、地盤沈下量が大きかった結佐を通る十余島幹線用水路の一部が追随しきれず、漏水被害が発生しました。
 稲敷市、河内町の農地・かんがい排水施設の復旧費は約19億円(国営二期事業建設のほか県営事業等総ての施設)と巨額ですが、平成24年度本格復旧工事完了を目指して鋭意工事が進められており、24年の稲苗の植え付けはほぼ全面積行うことができました。

参考文献

利水豊穣  関東農政局新利根川沿岸農業水利事業所
新利根川沿岸完工記念写真集   関東農政局新利根川沿岸農業水利事業所
新利根川土地改良区50年史 新利根川土地改良区
鈴木 顕著 新利根上流土地改良区沿革史
土地改良区20年のあゆみ 豊田新利根土地改良区
茨城県の歴史市町村編 茨城県
竜ヶ崎郷土史 竜ヶ崎市
東村史 東村
東洋文庫 風土記 (株)平凡社 
日本古典文学大系 風土記 岩波書店 
新編常陸国史 (財)宮崎報恩会
赤松宗旦著 利根川図誌 (株)岩波書店
吉田東伍著 増補大日本地名辞書  (合)富書房
渡辺一男著 ふるさと文庫 利根川と農 
建設省関東地方建設局監修 大利根百話 (社)関東建設弘済会