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戦後の国営事業











 

 

 

 

 


はじめに

 中信平とは、松本市生まれの山本茂実氏が著した『あゝ野麦峠』で有名な、日本アルプスより上高地を経由して流れる梓川(あずさがわ:末流は犀川-千曲川-信濃川-日本海へ)の左右岸に広がる平野部の名称です。梓川の右岸側が松本平、左岸側が安曇野(あずみの)と呼ばれています。
 中信平地区は、長野県のほぼ中央の松本盆地に位置する松本市、塩尻市、安曇野市、山形村および朝日村に跨がり、西側から拡がる一級河川信濃川水系梓川等によって形成された広大な複合扇状地と東側の低地からなっています。

1.慢性的貧水地帯

 この地域では縄文の時代から集落が存在し、今からおよそ2300年前の弥生時代には稲作が始まったと思われる水稲栽培に関係する遺物(弥生土器)が昭和59年(1982)に松本市里山辺地区の針塚遺跡で発見されました。
 弥生時代後期(1900〜1700年前)になると、奈良井川下流域における遺跡から新しいムラの跡は100年前の弥生時代中期に比べて2倍以上に数を増してくる。調査されたムラをみると、いずれも管理された水路のような直線的に流れる小河川に面しており、長大な開削工事をして導水してきたものと考えられる。この水路こそが、いままで利用できなかったこの地を耕地にかえるために重要な役割を果たしたと思われる。
 平安時代中期の承平年間(931〜938)に編纂された『和名類聚抄』には、信濃国筑摩郡に大井郷ほか5郷が記されている。大化の改新によって律令制が布かれ、およそ1100年前に地方行政区画の最小単位『大井郷』(現在の松本市島内辺りとみられる)が成立し、律と令をもって庶民を統制し租税を集める郷長が置かれていた。
 扇状地は、川が周りより低いところを選んでの河道変更が何度も繰り返して形成された堆積大地です。扇状地では、本川が幾筋にも分かれて分流する。その分かれた派川を農業用水として利用されてきた。

中信平(松本平、安曇野)

安曇野複合扇状地

2. 堰の開発

 本地域には、古くから堰(本地方では農業用水路を堰とよぶ)が開削されてきたが、 その記録は少なく、各堰の開削年代を知ることはできないが、江戸時代における水争いや堰の普請の記録などが残されている。一方江戸時代以前の記録が少ないことから中世に開削されたとみられている。

 1)縦堰の開発
 安曇野では、堰の多くは梓川や烏川から取水を行っており、立田堰は梓川左岸で最も古い堰である。その後、村落の開発とともに扇状地上には河川から放射状に延びる多くの堰(縦堰)が開削された。等高線に直角方向で流下する用水路であることから「縦堰」と呼ばれている。
 こうした縦堰の多くは、近世以前の中世の荘園(住吉荘、矢原御厨など)の成立とともに開発が行われたと考えられています。さらに荘園側の開発とは別に中世後期に流量が豊富な梓川本線から取水する大規模な縦堰の開発が行われました。
 しかし、梓川から取水する縦堰は、荒れ川である梓川の一部を堰き止めて行われたが、この川は砂や砂利が厚く堆積し岩盤の無い不安定な条件で、河川の氾濫の度に反復される取水口の改修(口堀普請:くちほりふしん)は、農民にとって重い負担になっていました。また、一旦干ばつとなれば下流は水不足となり安定した流量の確保は困難でした。

 2)横堰の開発
 江戸時代には新田開発が進み、梓川両岸14ヶ所から用水を引水する縦堰を利用して 行われる開発可能地のほとんどが開発されてきました。  しかし、限られた河川からの引水のため水量は全体的に不足しており、日照りの際には堰の上下流だけでなく、河川両岸で水争いが頻発するようになりました。
 このような状況のなか、江戸初期に矢原村(旧穂高町)の庄屋 臼井弥三郎は奈良井川から取水する事を決断した。奈良井川は盆地の最低部に位置し、既存の取水もなく、 豊かで安定した奈良井川の水をどうにかして安曇野に引きたいという願いが高まり、新たな堰の開発を行う動機となりました。奈良井川からの水を引水する堰は、梓川扇状地の等高線に沿って緩やかな勾配を保ちつつ従来の縦堰とは直角に交差す「横堰」となりました。
 高度な測量技術が必要とされ、何度も失敗を繰り返し、ついに承応3年(1654)「矢原堰」として完成しました。この成功は、後に行われた「勘左衛門堰」貞享2年(1685)や「拾ヶ堰」文化13年(1816)に繋がったのです。
 今日に名を残しているものとして、右岸では和田堰、新村堰、榑木堰、栗林堰、島内堰、高松堰の7堰があり、左岸では太郎堰、立田堰、温堰、横沢堰、庄野堰、中萱堰、真鳥羽堰、飯田堰の8堰がある。

3.水論(水争い)

 渇水時には、梓川の左右岸の村々と水争いが絶えなかった。
左右岸の争い、鎖川の水をめぐる争い、「川落とし」の慣行など様々な水争いが起こっていたが、明治時代にも新たな堰の開削が行われた。明治15年には波多堰(現在の波田堰)、明治39年に黒川堰が完成し、開田が行われた。
 川の水量は比較的豊富であるが、季節による変動が大きく、融雪期には多いが、日照りが続くと下流へは行き渡らない。また、梓川は急流な河川であり、一雨降れば洪水となって牛枠などの取水設備が流失し、日照りが僅かでも続くと水不足になる。
 その上、堰が網の目のように張り巡らされて、漏水も多く、領知の違いもあって用水慣行は複雑であった。古くから続いた開発・開田によって、近世にはかんがい用水は既に限界に達し、しばしば分水紛争を引き起こした。  上流から順次取水するため、下流における用水不足は、悲惨なものであった。

 

4.水争いの解消へ(堰の合口)

 大正13年7月、大干ばつに襲われた下流部が上流部から水を分けてもらったが、対岸の村と奪い合いになり、乱闘事件を引き起こした。この事件を契機にかんがい用水の絶対量を確保するために、梓川を共通の水源として統一監視、有効利用しようとする機運が生じた。県では、14か所の堰を1つに統合して波田村赤松地点に赤松頭首工を設置し、左右岸に平等に配水する梓川農業水利改良事業を大正15年に開始し、昭和6年に完成しました。

赤松頭首工

5.梓川頭首工の建設

 洪水には強い赤松頭首工だったが、洪水による河床低下や梓川からの砂礫の流入が甚だしく、取水は困難を極めた、そのため、赤松頭首工より約2.5km上流の河床変動が少なく、堆砂の少ない良好な岩盤の梓川渓谷に梓川頭首工を新設しました。
 しかしながら、梓川の水量の変動が大きいことに加え、小河川に頼る地区は相変わらず水源の水量に乏しく、畑地帯では常習的な干ばつが問題となっていました。
 水源確保を悲願とする農家及び土地改良区では、関係方面にダム建設の要請を行い、長野県は梓川下流沿岸地域の農地及び農業用水の開発と発電用水等を開発する総合計画(昭和33年「中信平地区総合開発計画」)を発表しました。同じ頃、東京電力では梓川の電力開発を検討しており、奈川渡(ながわど)ダム、水殿(みどの)ダム及び稲核(いねこき)ダムを建設する電源開発計画を発表しました。こうして、東京電力鰍ノよる発電事業と農林省による中信平農業水利事業は並行して進められました。昭和36年、発電と農業用水の利水調整が整い、土地改良事業の必要用水が確保されました。

6.悲願の安定取水

 農林省は、既成田の用水不足の解消と畑地帯でのかんがい農業による農業経営の安定を図るため、梓川右岸(松本市、塩尻市、波田町、山形村、朝日村)と左岸の旧梓川村(現松本市)、旧豊科町、旧穂高町、旧三郷村、旧堀金村(いずれも現安曇野市)にまたがる10,691haの水田、畑を受益地とする「国営中信平土地改良事業」を昭和40年に着工しました。
 しかし、同45年には米の生産過剰による開田抑制政策が打ち出され、開田計画はすべて畑地かんがい計画に変更されました。
 稲核ダムから附帯する新竜島発電所調圧水槽から新たに農業用水3.879m3/s を導水及び既存の梓川頭首工の取水工を3門増設し、新規分17.16m3/sと既成田分38.19m3/sを取水するとともに、右岸の波田町、山形村、朝日村を経由し塩尻市にいたる延長19km、また、左岸の旧堀金村、旧三郷村、旧穂高町にも延長約15kmの大幹線用水路が新設され、合計約70kmにおよぶ幹線水路が改修されました。
 また、関連事業により農業基盤の整備と相まって、農業用水の安定した供給により農業経営と維持管理費の軽減がはかられました。その結果、中信平地区は、現在では県下有数の農業地帯へと発展し、また農業用水は防火用水や洗い場などでも利用され、多面的機能を発揮する地域の大切な資源となっています。

7.中信平地区の事業計画

 中信平地区の抜本てきな利水改善とほ場整備、営農改善等により近代農業にふさわしい農業基盤を整備し、農業生産の増大と経営の合理化を図ろうとするものです。
 用水源としては、東京電力鰍ェ梓川中流部奈川渡地点に奈川渡ダム(高さ155m 有効貯水量9,400万トン)を、その下流には水殿・稲核の両調整池を建設し最大出力 900,000kwの発電を行なう計画と相俟って、梓川の流況を改善し、農業用水源を確保 しました。既水田6,426haの補給水及び畑地帯4,038haの畑地かんがいを行なうものです。
 取水方法は、梓川右岸上段部・奈良井川沿岸地区は前記稲核ダムから導水する東京電力竜島発電所調圧水槽から、新たに最大時3.7m3/sを取水し、右岸上段幹線を新設して 導水する。梓川右岸中段地区及び左岸上段地区は、それぞれ幹線用水路を新設して導水する。また、梓川沿岸中・下流部は既設の梓川左・右岸用水路を改修して導水する。  これらの取水は、梓川頭首工取水工を増設し、新規取水量もあわせて最大55.3m3/s を取水し、幹線用水路延べ69.9kmを施工する。
 また、梓川左岸の新規開発やほ場整備により、豪雨時の流出量が増加するため、本地区中段の堀廻堰・深沢川・拾ヶ堰などの用排兼用用水路を承水路として整備し連絡水路 も含め、8.4kmを施工するものである。

用水系統の概要

8.整備された農業水利施設

 国営事業により、取水工2ヶ所(上段取水工、梓川取水工)幹線用水路69.9km (新設48.234km、改修21.705km)付帯承水路8.4kmの整備が行われました。

改修された梓川頭首工
上海渡分水工
梓川導水路
赤松分水工
梓川右岸幹線用水路
梓川左岸幹線用水路
竜島発電所と右岸上段幹線分水工
(出典:中信平農業水利事業 竣工記念誌)

9.良好な農業生産基盤を次世代に

○国営中信平二期農業水利事業の着手
 この地区を支えてきた梓川頭首工や梓川幹線(隧道)は、完成から50年以上、その 他の施設も30年以上が経過し老朽化の進行により亀裂が入るなど、安全性の低下や施設の維持管理にも多大な労力と経費を要するようになりました。また、近年の土地利用 形態の変化にともない、水需要が集中化し、その変化に対応した適正な農業用水の配分が困難となってきました。
 こうした状況を解消するため、梓川頭首工と幹線水路28.5kmの改修を行うとともに、 水管理施設の整備、小水力発電所の建設を行うことにより適正な用水配分と農業水利施設の合理的な維持管理を行い、農業経営の安定と地域農業の振興および維持管理費の低減を図ることとし、平成17年から国営中信平二期土地改良事業が着手し、平成26年度に完工となりました。
 中信平二期農業水利事業計画は、農業水利施設の定期的な機能診断に基づく機能保全対策を通じて、既存施設の有効活用や長寿命化を図り、ライフサイクルコストを低減 するための技術体系及び管理手法(所謂、ストックマネジメント手法)により策定されました。

○二期事業の主要工事
 (1) 梓川頭首工

名称

梓川頭首工

 

形式

フィックスドタイプ
全可動堰

河川名

1級河川信濃川水系梓川

堤長 L

49.6m

堤高 h

4.0m

最大取水量

52.180m3/s

土砂吐

15.2B×4.0H×1門

洪水吐

15.2B×4.0H×2門

取水位

710.5m

魚道

アイスハーバー型
B1.5m L3.0m 25段


施設名

区分

延長(q)

 

施設名

区分

延長(q)

 (2) 幹線用水路

右岸上段幹線

改修

9.4

 

梓川幹線

改修

2.2

導水幹線

改修

2.5

梓川右岸幹線

改修

1.1

右岸幹線

改修

6.8

梓川左岸幹線

改修

0.6

左岸幹線

改修

5.9

 

28.5

(3) 中信平小水力発電所

水路名

梓川左岸幹線

最大出力

499kW

発電方式

流れ込み式(水路式)

常時出力

225kW

水車形式

横軸チューブラ水車

最大使用水量

11.0m3/s

有効落差

最大 7.6m〜最低 5.3m 最大出力時5.54m

(4) 水管理施設

中央管理所

1箇所

遠方操作

7箇所

遠方監視

16箇所

 

 

10.安曇野地域の排水施設を抜本的に整備

○安曇野地区広域排水事業の着手  安曇野地域は、前述のように先人たちのたゆみない努力により、水田や畑のかんがいを目的とした水路が開設され、用水主体に発展してきました。このため降雨時における雨水の排水も用水路がその役割を果たしてきました。
 しかし、ひとたび大雨が降ると、もともと排水能力をもたないこれらの用水路はいたるところであふれ、農地や集落へ被害をもたらしていました。また、全国的にも例の少ない尻無川が用水路に流入していることも被害を広域的なものにしていました。
 排水設備の整備は、安曇野地域の長年の懸案でありました。このため農業生産環境の 改善を図り、農業経営の安定と未来の農業環境を創造することを目的に安曇野地区広域 排水事業が平成7年度から着手し、平成16年度に完成しました。

○中信平地区の土地改良年表

大正13年7月

中信平地方大干ばつ

大正15年

長野県が梓川農業水利改良事業計画を策定

昭和2年〜6年

県営梓川農業水利改良事業

昭和18年〜20年

県営梓川農業水利改良事業(第二期)第二次世界大戦の終戦で中断

昭和22年2月〜

農地開発営団が引き継ぎ 営団営梓川農業水利改良事業

昭和22年〜25年

国営梓川土地改良事業が継承

昭和40年〜52年

国営中信平土地改良事業

平成7年〜16年

国営安曇野広域排水事業

平成17年〜26年

国営中信平二期土地改良事業

11.変貌を遂げた農業地帯

 水田用水の安定的供給はもとより、特に、梓川沿岸の常襲的旱魃地帯であった標高の高い台地にある畑地帯への農業用水の安定的供給と農地の整備により大きな成果が得られました。
 梓川の右岸では、国営及び県営事業等により桔梗ヶ原・古見原・波田下原などかつて の痩せ地は、生産性の高い優良農業地帯へと変貌しました。現在、これらの地域は、 下原のスイカ、岩垂原のレタス、桔梗ヶ原のブドウなどの洋菜や果樹の有数な産地となりました。
 一方、左岸では、中信平の左岸幹線用水路は、安曇野西縁山麓の扇状地を貫通する最大の横堰です。それまで堰もなく全く「かんがい」が出来なかった地域にスプリンクラーや 畦間かんがい施設が完成し、かつての痩せ地は今や広大な「りんご園」に一変しました。
 また、これまで拾ヶ堰の水を揚水ポンプで補水したり、深井戸を掘って伏流水を活用してきた地域にも、全面かんがいが可能となったのです。
 ポリマルチの利用による作期の拡大などが進みレタスの出荷量が急増。

レタスの畑

 共同防除組合の設立、スピードスプレーヤーの導入とわい化栽培組合の結成などに より量、質とも全国有数のりんご産地となる。

 安定した農業用水の供給と効率的な生産活動ができる農地の活用、 連作が可能となる接ぎ木技術の導入により作付け面積の大幅拡大と出荷量の増加。

12.近代的農業水利施設の発展状況

 中信平地域の近代的な農業水利施設は、県営梓川沿岸農業水利改良事業に始まり、国営梓川農業水利事業、国営中信平土地改良事業、国営中信平二期土地改良事業と国営安曇野広域排水事業により役割が拡充され発展してきました。