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1. 鬼怒川の源流「鬼怒沼」から利根川へ

鬼怒沼から利根川へ

 奥鬼怒は、栃木と福島・群馬との県境に連なる二千メートル級の山岳に抱かれた地域で、帝釈山、黒岩山、鬼怒沼山などの山々の間には、尾瀬沼より六百メートルも高く日本最高の高層湿原といわれる「鬼怒沼」のほか、多くの小湿原が点在しています。これらの山々や湿原から湧き、流れ出る水が鬼怒川の源流となっています。
 栃木県日光市(旧)栗山村川俣から東方へ発った鬼怒川の流路は、途中、瀬戸合峡などの渓谷をつくって、栗山の村々を洗った後再び渓谷を形成、北から男鹿川を合流させて流路を南に転じて、鬼怒川温泉・龍王峡を穿ちます。その下流で今度は、日光・男体山の溶岩流で形成された中禅寺湖・華厳の滝から下る大谷川の西からの流入にあわせて、東に向きを変えます。そして、ここ栃木県塩谷町佐貫地点で、ようやく流れは平地に到達し、その地形の傾斜にあわせて、再び南へ流下することになります。こうして鬼怒川は、この地域に大谷川がつくり上げた見事な扇状地の扇端に出て、はじめて平地を流下する大河川になるのです。
 そして、鬼怒川の流れは、平野部に入ると広大な河原を目立たせ、人の社会生活の上でも大きな影響を与えつつ、栃木県内では、宇都宮市東部から県内中央部を貫流、南下して小山市地内、さらに茨城県内へ入り、結城市などを経て守谷市地点の利根川へと流出し、約百八十キロメートルの旅を終えるのです。
(注)鬼怒川は、アイヌ語で「河床の輝く川」という意味を持つと言われ、続日本記には「毛野川」と記され、その後「けぬ」が「きぬ」に転じ「絹川」、「衣川」と称されるようになった。江戸時代の文書には、「鬼怒川」と記されており、統一された名称となったのは明治時代に入ってからのことである。この川は「鬼」「怒」「川」の名のごとく氾濫して洪水を度々起こす川でもあった。

2. 江戸と結ぶ鬼怒川の河岸(かし)

石法寺河岸付近を遡航する帆掛け船(明治時代)

 栃木県中央部地域の「母なる川」として、今も親しまれている鬼怒川は、先ず、古代からと思われる住民の利水、特に中世に至っての幾多の農業用水開発が進んだこと、さらには近世、江戸時代における鬼怒川沿岸各所の河岸の構築で舟運が発展し、ともに江戸との社会経済、文化との交流が盛んになり、時を経て現代に至っているからと思われます。
 河岸とは、陸付けしてきた荷物を船におろし、船に積んできた荷物を揚げる河港をいいますが、ここには運送業務を行う「河岸問屋」が営み、江戸初期の鬼怒川の最上流・遡航最終点の阿久津河岸は、奥州の会津藩など馬背で運ばれてきた廻米輸送が主でしたが、しだいに商品流通の場として発展しました。
 鬼怒川には、最上流の阿久津河岸が1606年(慶長11)につくられ、下流に1〜2里間隔に板戸、道場宿、石法寺河岸をはじめ茨城県下の各地を経て、江戸と結ぶ拠点が設置され、川は時の社会経済発展のための主要輸送路として、その役割を果たしてきたのです。このため、舟運繁栄期には河川の農業用水取り入れ水路等を利用して運河を開削し利便性が図られた痕跡も多々みられます。当時の宇都宮城下に年貢米や木材を運送した「御用川」は1668年(寛文8)につくられ、近年まで塩谷町大宮村逆木地点の西鬼怒川から農業用水を取水していた好例です。
 しかし、河川運輸も1789年(天明期末)頃から衰退の兆しがみえます。とくに鬼怒川は、古来から暴れ川として記録にあるように、度々の川の氾濫に加えて洪水ごとに流路が激しく変化することなどから、つねに動く川筋の管理、保全には莫大な経費の負担はもとより、当時の技術では限界があり対応できなかったことがあるようです。もちろん、日本の近代期・明治維新(1830年代)が始まる時代の変化も大きく影響したと思われますが、しかし鬼怒川の舟運は、明治の末期まで幾多の河岸がのこり、その後の鉄道の発達で消滅したのでした。

3.地域の水土整備―水との闘いー

 鬼怒川の人間社会との本格的なかかわりは、先ず、住民らの新田開発、水田稲作農業を主軸とする農業用水の確保から始められました。このために、人々は自然河川からの用水取り入れ口の構築に、古来から川と闘ってきた歴史があります。
 鬼怒川は、鬼怒沼から出た流水は幾多の河川を合流させ、渓谷を穿ち流下して塩谷町佐貫地点で平地に入り大河川になりますが、平野部最上流のこの地域でも江戸時代に入った1600年代には宇都宮藩によって幾多の用水取り入れ口がつくられました。
 平野部に入った鬼怒川の流路は、佐貫地点下流、宇都宮市逆木の地点で東西に大きく分流します。そこで、宇都宮藩は、澪筋の東鬼怒川沿岸から下野最大の水利事業といわれる約二十キロメートルにわたる「市の堀用水」を開削して高根沢町近隣の新田開発を進め、1656年(明暦2)に完成させます。他方、1668年(寛文8)、西鬼怒川・逆木地点からも既存の農業用水取り入れ水路「逆木用水」を、宇都宮城への舟運水路に開削して「御用川」をつくるなど、鬼怒川の利水事業の整備を図ったようです。
 しかし、1683年(天和3)日光大地震が栗山地方に起り、鬼怒川支線・男鹿川が葛老山の大崩落により堰き止められ、巨大な湖ができて五十里・西川村や会津街道は湖底に沈んでしまいました。この天然ダムが、40年後の1723年(享保8)8月10日、4日間降り続いた台風豪雨により耐えきれなくなり一気に決壊、「五十里洪水」となって地響きとともに、濁流が鬼怒川を下ったのでした。古記によると、濁流は佐貫地点から羽黒山にぶつかり、氏家、宇都宮方面に流れて大海原と化し、約一万二千人が亡くなったといいます。
 その後も、鬼怒川の澪筋も経年ともに西鬼怒川が本流となり大河化し、西鬼怒川の農業関係者は、度々起る洪水の被害とその施設復旧には言語に絶するものがありました。
 明治期に入って「川除費(かわよけひ)(河川工事費)は官費で」とはうたわれても、県としても緊縮財政下で思うような対応ができず、鬼怒川はかなりの荒廃状況にさらされていたようです。特に1889年(明治22)西鬼怒川の氾濫、翌年の大洪水では建設間もなかった日本鉄道の西鬼怒川鉄橋が破損し、1897年(明治30)には鉄道路線を現在の東北本線に変更する始末でした。
 このような人々と鬼怒川との関わりは古記以前の大昔から続いてきました。ここ鬼怒川左岸塩谷町佐貫地点にある、国指定史跡の悲願をこめた「佐貫石仏」が物語っているのです。
 そこには高原山麓の残丘からなる約七十メートルにおよぶ断崖が聳え立っています。そして、通称「観音岩」とよばれる露頭の石英粗面岩に、線刻された磨崖仏・国指定史跡の「佐貫石仏」があります。この断崖の南と西側が絶壁となっているのは、明らかに鬼怒川の側方浸食によって形成されたものであり、その下方にはまた、縄文、弥生時代の洞穴遺跡が発掘されていて、古来からの人間社会を知るうえでも興味深い地点でもあります。
 昔から親しまれてきた佐貫石仏は「弘法大師一夜の作」との伝承がありますが、彫刻年代は平安時代初期説と平安末期〜鎌倉時代初期説があり、後者が有力となっています。これは、近年の石仏の右肩上の「奥の院」または「大悲願窟」と呼ばれる小洞窟の中にある観音像等の調査、そして現在も六十年に一度開帳される儀式などによって明らかになりつつあるからです。
 いずれにしろ、この石仏の製作者は岩頭に立って、この地で荒れ狂う鬼怒川と取り組む人間社会の安寧を祈願して、渾身込めてつくり上げたことに変わりはないと思われ、後代にいたっても、宇都宮氏が奉納物を奥の院にささげた想いも同様だったようです。これらのことを考え合わせると、ここ佐貫地点は、人間社会の鬼怒川とのかかわり合いの象徴として記されるところなのです。

佐貫頭首工・観音橋から「観音岩」を望む

観音岩に線刻された磨崖仏
「佐貫石仏」

4.鬼怒川沿岸の総合開発事業の始動

鬼怒川における国営農業水利事業

 河川と人間社会とのかかわりは、つねに利水と治水をめぐって展開してきています。我が国は、水田稲作農業を主軸に農業用水の開発を中心とする利水が先行し、治水はこれを追うかたちで進められ、今日に至っていると思われます。
 鬼怒川の場合も、先にみたように新田開発から始まった農業用水の確保のために、農業関係者が利水施設の維持管理に苦闘した江戸年間、明治・大正時代、そして昭和年代の大戦終戦後の抜本的な治水対策がなされるまで、その悲惨な歴史がつづいてきたのでした。

鬼怒川中部農業水利事業 計画一般平面図
 もちろん国としても、鬼怒川の度々の出水による大きな被害に対する治水対策として、1926年(大正15)鬼怒川河川改修工事に着手、五十里ダムの計画、調査が行われましたが、実現できませんでした。しかし、ようやく戦後の1950年(昭和25)に、アメリカの対日援助見返り資金によって長年の懸案であった五十里ダム建設工事が再開、その後国の鬼怒川総合開発事業として位置づけられて1956年(昭和31)五十里ダム、1965年(昭和40)川俣ダムが鬼怒川水系の洪水調節、下流農業用水の補給、そして発電事業をもともなう多目的ダムとして完成したのです。
 鬼怒川上流部の多目的ダム群は、さらに1962年(昭和37)、川治ダムが首都圏の水需要に対応するために計画されるなど、国は鬼怒川を治水とともに、農業用水、都市用水などとの利水調整の相まった河川開発を実施することになり、鬼怒川下流全域を含む鬼怒川沿岸総合開発事業が推進されることになるのです。
 これらの抜本的な治水対策の実現は、鬼怒川最上流の栃木県の主要な穀倉地帯として発展してきた鬼怒川中部地域の農業関係者にとっては、長年渇望してきたことでした。そこで鬼怒川中部地域は、佐貫地点下流の左岸から市の堀用水ほか4地区を含めた約五千ヘクタール、右岸からは逆木用水ほか3地区を含めた約三千五百ヘクタールを擁する水田地帯で、渇水時には各用水地区の水争いが絶えない関係にもありましたが、栃木県の努力によって1953年(昭和28)、両岸全関係用水組合が結集して鬼怒川中部土地改良区連合を設立したのです。
 ここに、鬼怒川沿岸の総合開発事業の一環となる先発国営事業として「鬼怒川中部農業水利事業」が、始動したのでした。

5.鬼怒川中部農業水利事業の概要

佐貫頭首工

 鬼怒川中部地域の左右岸の老朽化した九ヶ所の農業用水取り入れ口を一カ所に統合して、安定した取水を図る合口事業は、ようやく1955年(昭和30)に国の事業として採択、1957年(昭和32)に着工しました。加えて、農業用水導水路の落差を利用した水力発電事業が栃木県営事業として仕組まれ、新設の佐貫頭首工、導水路などは両者の共用事業として実施されたことなど、新しい方式の河川利水の総合開発として特徴のある事業となりました。
 こうして1966年(昭和41)、鬼怒川中部農業水利事業は、上流ダム群の整備とともに、これまでの各取り入れ口が近代的な堰堤と設備で合口されて、完成をみるのです。佐貫地先、鬼怒川左岸に聳える観音岩の「佐貫石仏」も、その直下に据えられた「佐貫頭首工」を、事業関係者らとともに祈念満願の想いで眺めたかも知れません。
 そして、この事業完成の成果は、その後の当地域の農業の近代化、特に機械化農業を目指すほ場整備事業の推進へと展開していきました。
 完成した鬼怒川中部用水は、栃木県最大の受益面積を持っており、県下の穀倉地帯の大動脈となっています。また、この用水の末流は、田川、五行川(ごぎょうがわ)に流れ込み、下流で利用されている他、地下水の涵養も行っています。このように、鬼怒川中部用水は周辺地域も含めて広い範囲の発展と国土保全に大きく貢献しています。

栃木県の水田整備面積の推移
 栃木県では、平成25年度末までに、 農振農用地区域内における水田の約71 %にあたる58,464haのほ場整備を完了 し、うち約9,287haを50アール以上の大区 画ほ場として整備しました。
 栃木県における水田整備は国営事業が 完成した昭和40年代後半から60年代を を最盛期として、年間1千haを超える 整備が行われてきましたが、近年では 年間200ha程度で推移しています。

◎事業概要

鬼怒川中部農業水利事業 水路系統図
工期 昭和32年度〜昭和41年度
受益面積(水田) 左岸:5,404ha 右岸:3,537ha 計:8,941ha
関係市町村 関係地域2市7町
 ☆鬼怒川左岸:塩谷町、氏家町、高根沢町、芳賀町、市貝町、真岡市
 ☆鬼怒川右岸:上河内町、河内町、宇都宮市
基幹施設・佐貫頭首工(塩谷町佐貫地先)
    固定堰:堰高3.35m 延長123m 取水量最大42m3/s 
  ・主要水路工
    導水幹線 延長5,579m 通水量42m3/s
    逆木幹線 延長1,834m 通水量16.7m3/s
    市の堀幹線 延長5,775m 通水量23.4m3/s
    草川幹線 延長7,329m 通水量9m3/s
  ・風見発電所=栃木県企業局(塩谷町風見山田)
    発電方式:水路式 最大水量:42m3/s 出力:最大10,200kw
◎事業経過
   昭和28年12月28日 鬼怒川中部土地改良区連合設立
   昭和29年12月24日 国営土地改良事業施行申請
   昭和30年6月6日 国営土地改良事業決定
   昭和32年6月1日 国営鬼怒川中部農業水利事業所開設
   昭和34年2月 栃木県、県営風見発電事業を検討
   昭和34年2月4日 鬼怒川中部農業水利事業を特別会計事業に決定
   昭和35年 5月31日 第29回電源開発調整審議会で共用施設の決定
   昭和35年10月 共用施設の詳細設計、農林省と栃木県の検討完了
   昭和35年11月24日 導水幹線着工(38年12月完成)
   昭和36年2月16日 逆木幹線着工(38年12月完成)
   昭和37年1月12日 風見発電事業の農林省、栃木県の協定締結
   昭和37年9月20日 佐貫頭首工着工(39年3月完成)
   昭和39年4月5日 佐貫頭首工、導水幹線、風見発電所稼働開始
   昭和39年7月18日 市の堀幹線着工(40年3月完成)
   昭和39年10月10日 草川幹線着工(40年3月完成)
   昭和41年3月30日 主要工事完了
   昭和41年8月18日 国営鬼怒川中部農業水利事業完成

6.参考文献

  1. 『栃木県土地改良史』栃木県土地改良事業団体連合会1979
  2. 『栃木県土地改良史(増補版)』栃木県土地改良事業団体連合会1989
  3. 『水との闘い』西鬼怒川土地改良区1975
  4. 『栃木県大百科事典』栃木県大百科事典刊行会1980
  5. 『塩谷町史(第一巻原始古代史料編)』塩谷町1996
  6. 『江戸とつながる川の道―近世下野の水運ー』栃木県立博物館 2014
  7. 宇都宮市河内逆木用水のHP
  8. http://a11234842.travel-way.net/25416kamikawati004.html
  9. 図-1鬼怒沼から利根川へ →国土交通省関東地方整備局下館河川事務所 HP
  10.   http://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000100517.pdf
  11. 図-2鬼怒川における国営農業水利事業→関東農政局
  12. 図-3鬼怒川中部農業水利事業 計画一般平面図→関東農政局 
  13. 写真 佐貫頭首工→関東農政局
  14. http://www.maff.go.jp/kanto/nouson/sekkei/kokuei/kinugawa/kinugawananbu
    03_1.html
  15. 図-4平成26年度栃木県の農業基盤整備−元気あふれる郷をめざしてー
  16. http://www.pref.tochigi.lg.jp/g07/work/nougyou/nouchi-nouson/1179203533054.html
  17. 図-5鬼怒川中部農業水利事業 水路系統図→鬼怒川の水は何処へシリーズ第1弾 HP 
  18. http://www.ayuturi.jp/topics/sanuki/index.html
  19. 写真 佐貫石仏を望む→ケン坊の日記
  20. http://kenbosuzume.blog35.fc2.com/blog-entry-1851.html