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戦後の国営事業





 

 

 

 


1.はじめに

 兵庫県南部・播磨東北部の加古川左岸に位置する丘陵地帯の 灌漑用ダムとして、旧:上東条村黒谷地先(現:加東市)に建 設された『鴨川ダム』の湖底には、かつて戸数 7戸(51人)、 耕地面積 8町歩(田 7町歩、畑 1町歩)の戦後としては 豊かな暮らしの土井集落があった。
 大正13年、播州地方を襲った大旱ばつの救済対策に悩んで いた、旧:市場村長(現:小野市)の近藤準吉翁(国営東条川 地区の「兵庫県東播土地改良区」初代理事長 近藤 次(ヤドル) 氏の父)は有名な言葉を残し、本事業が着手された昭和22年 まで語り伝えられていた。
 『天恵の地形、土井は池になる!』と・・・。

昭和22年12月撮影
土井集落全景
(正面中央の割れ目が鴨川ダム予定地)

 土井集落は四方を山ですっぽり囲まれた典型的な盆地であるが、1ヶ所だけ小さく裂けており、そこを遠慮がちに小さな鴨川 が流れていた。準吉翁はこの割れ目を塞げば立派な“池”にな ると言ったのだ。
 土井集落としてはその当時、全く迷惑千万な話であった訳だが、 戦時中にも、ダムが築造されて水上機の基地になると言いふらさ れるなど、土井の人達にとってはその当時から、永遠に安住の地 としての桃源郷を約束されていた訳ではなかったのである。

2.東播地方資源開発事業の概要

 近藤準吉翁は、常習的な旱ばつ地帯である加東郡及び美嚢、加 西、加古郡の農地6,000町歩に対する旧田の用水補給と新たに丘 陵地の山林を開拓することにより、開田1,500町歩、開畑1,000 町歩の農地を造成し、産米の増殖と農業経営の安定を図り、貯水 量の一部は工業用水として利用するため、用水源として東条川上 流の大川瀬渓谷(現:大川瀬ダムの下流3q地点)に79,400千m3 の東条川貯水池(主)、上東条村土井に11,070千m3の鴨川貯水池 (副)を築造し、ダム間の連絡導水路を経て、鴨川貯水池から幹線 水路により地区内に送水すると言う大構想を立案し、昭和13年 3月に「東播地方資源開発期成同盟会」が発足した。

3.事業推進の経緯

 期成同盟会は事業の推進を図るため、関係四郡の町村長が状況 し、関係各省に陳情嘆願すると共に、会長 近藤準吉氏が状況の 上、加東郡選出の小林代議士を通じて「建議案」の提出を懇請し た結果、昭和14年3月国会において採択された。
 これを受けて兵庫県議会も論議を尽し、県知事がしばしば現地 を視察し地元選出県会議員が期成同盟会と共に推進に努力し、そ の計画実施の具体化が期待された。
 然し、昭和15年に入り支那事変は一段と戦局が飛躍して、遂 には昭和16年12月米、英に対し宣戦を布告し大東亜戦争へと発 展したため、地方開発事業は次第に影を薄め、一旦中止を余儀な くされた。

4.国営事業発足の背景

 = 終戦 = 戦地からの復員者が国内に溢れ、津波のように襲 ったのが“食糧難”である。 一にも増産二にも増産が叫ばれ食 糧の国内自給体制の確立を急ぐことが国民の熱望であり、進駐軍 の占領政策でもあった。 日本政府が食糧の増産を至上とする時 機において、戦争のため葬られていた東播地方の土地改良、開拓 事業が台頭してきたのである。
 時あたかも開発先駆者、故:近藤準吉翁の一子近藤 次 氏は 市場村長として自治行政に専念中であり、父:準吉の初志を実現 せんものと真っ先に取り組んだのが東播土地改良事業の実現であ った。
 次氏は兵庫県農地部の協力のもとに、地元選出代議士を通じ て、政府と軍政部(G.H.Q)へ波状陳情を繰り返す一方、地元では 受益地区を決定して「東播普通水利組合」(兵庫県東播土地改良 区の前身)を結成した。
 ダム建設は食糧の乏しい混乱期に、封建日本の殻を脱却するた めの政策として採択された農地改革と相俟って、軍政部ベニー中 尉等の現地視察を契機として、農林省が国営事業として採択する こととなり、昭和22年 5月に上東条村役場内に「国営東条川農 業水利事業所」が開設された。
 ここに、期成同盟会の「夢」(土井集落の人達には「悪夢」 ) が現実となった訳であり、準吉翁が“池”構想に魅入られてから 実に20余年ぶりの出来事であった。

5.鴨川ダム着工から完成まで

 昭和23年 9月 1日の「鴨川ダム調印式」を終えて、ダムの建 設は補償交渉の解決で勢いに乗った。
 昭和22〜24年度までの3年間で39,000千円程の工事費を投入 して仮設備工が完成し、コンクリート打設が本格的に実施できる 基盤が整った段階で、昭和25年9月に軍政部からの「見返り資金」 1億5千万円が転がり込み、工事は俄に活気づいて、築堤工事は 昼夜兼行という突貫工事を敢行、現場に常時250人の労務者が投 入された。

昭和26年11月撮影
完成した鴨川ダム
(下流側より望む)

 石英班岩というダム建設に恵まれた地質も手伝って、コンクリ ート打設(V=48,400m3)は順調に進み、着工して3年後の昭和 26年、有効貯水量 8,380千m3の鴨川ダムが完成した。
 (総工事費 314,353千円)

昭和26年11月撮影
鴨川ダム湖面の全景
(土井集落は水の底なり)

6.初代工事課長

 京都帝国大学を卒業後、農林省農地局に入省と同時に軍隊への 召集を受けた「故:梶木又三全国土地改良事業団体連合会々長」 〔兵庫県神戸市出身、元:農地局建設部長、元:参議院議員(3期 18年、元:環境庁長官&自民党参議院幹事長)〕は、四年半の軍隊 隊生活を終えて昭和21年夏に南方から復員し、その年の暮れに復 職の後、数人の仲間と一緒に上東条村天神(現:加東市)に、 この国営事業の調査班として乗り込み、以来、昭和22年 5月の 事業所開設を経て、昭和27年 3月までの5年半を「国営東条川 農業水利事業」の初代工事課長として鴨川ダムの建設(昭和23年 7月着工〜昭和26年11月竣工)に貢献された。
 日本三大名湯の一つである有馬温泉の“中の坊瑞苑”は、氏の 生家である。

7.現在

 『鴨川ダム』は、俗称“東条湖”の愛称で親しまれ、西国三十 三ヶ所巡り第25番札所の古刹清水寺の麓に位置し、立杭焼の里と 共に「県立自然公園」に指定(1957.04/27)されており、酒米「山 田錦」の水源としては基より、湖畔は行楽地として多くの人に慕 われている。
 また、昭和62年度からは「国営造成土地改良施設整備事業」に より、鴨川ダム等のリニューアル化が行われている。

平成9年3月撮影
鴨川ダム全景
(施設整備事業で改修されたダム、下流より望む)

8.東条川農業水利事業の概要

(1)事業期間
  昭和22年度〜昭和39年度
(2)国営事業費
   2,021百万円(対日見返り資金 174百万円を含む)
(3)受益地
  東条町、社町、滝野町(以上、現:加東市)、小野市、三木市
(4)受益面積
   3,021 ha( 旧田 2,522 ha、開拓  499 ha )
(5)主要工事
   鴨川ダム(総貯水量 8,676千m3
   調整池 2ヶ所(船木池、安政池)
   頭首工 1ヶ所(東条川取入堰)
   鴨川導水路 5,338m
   幹線水路  17,210m(第1号 〜 第5号)
(6)関連事業
   代行開墾建設事業  (昭和25年度〜昭和30年度)
   県営かんがい排水事業(昭和31年度〜昭和37年度)
   団体営   〃   (昭和27年度〜昭和38年度)

9.国営造成土地改良施設整備事業の概要

(1)事業期間
  昭和62年度〜平成8年度
(2)国営事業費
  3,953百万円(土地改良事業3,663百万円、 受託工事290百万円)
(3)主要工事
  鴨川ダム(堤体補修:導流部、堤頂部、鋼製ラジアルゲート 3門)
  調整池 2ヶ所(船木池、安政池)の取水ゲート改修
  幹線水路 3,650m(既設-水路内面 RC補強工法) 分水工改修
  管理施設 1式(観測・警報局舎の新設、テレメータ化など)

【引用・参考文献】
1.「東条川工事誌」農林省近畿農政局 1965/07/30
2.「東播土地改良沿革誌」兵庫県東播土地改良区 1970/07/25