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1.神々の大地、大和高原

大和高原の位置図

 大和高原は奈良県の北東部、標高数百bの起伏の多い山間丘陵地帯です。縄文・弥生時代から古墳・中世にいたる数多くの遺跡が存在し、古くから拓けていた半面、複雑な地形条件から大規模な開発の波にさらされることもなく雄大な自然環境や日本的な原風景が今も豊かに残されています。
 「東(ひむがし)の野にかぎろい(炎)の立つみえてかえり(顧)みすれば月かたぶきぬ」と柿本人麻呂が歌った阿騎野の地は宮廷の猟場として知られています。 神武天皇が軍を従えて熊野から大和平野に入る道中を案内したという八咫烏(ヤタガラス)を奉った八咫烏神社が安置され、今日では多くのサッカーファンが訪れていますが、「かぎろいの立つ東野の野」は神武軍が大和に入ってきた方角でもありました。
 鳥見山は大和を平定する戦いの際、「黄金に輝く鳥がこの山から飛来して神武軍に見方した」という伝承が山の名前として語り継がれるなど、大和高原は数々の神話の舞台ともなっています。
 鳥見山に連なり大和平野との接点に位置する三輪山は山本体が御神体と言われ大御神神社として大和朝廷との深いつながりあり、人々の心の拠り所でもありました。
 都の政変に関係しては「大化の改新(乙巳の変)645年」の談合や武装訓練をしたという「談山神社」。「壬申の乱」では軍を秘密裏に移動させた裏海道、南北朝動乱の折にも後醍醐天皇の吉野への道中となっています。(余話スズラン峠)

朝霧につつまれ神秘的な大和高原

奈良周辺で幾度も遷都等を繰り返しましたが、明日香、藤原、奈良、山城、吉野など全て大和高原の外縁麓部に位置していました。当時の大和平野は沼や湿地が多く生産性が低かったことから、大和高原は食料、薪炭、木材、薬草など都の生活を支えるために都合のよい地勢でした。大和朝廷にとって大和高原は今日の里山あるいは裏庭のような存在で、時には皇子達の狩り、武術訓練、皇女や女官達の野の花や山菜摘みなど、自然と親しみ野遊びをした安らぎの地でもありました。都から西方の海に面した河内、瀬戸内は異文化への刺激、外敵への脅威の地でしたが、山に面した東方の大和高原は安らぎと安心の地、信仰の地でもありました。

2.「神々の大地を拓く」大和高原の農業と国営総合農地開発

1)都市近郊生鮮野菜の供給地(南部)

 南部地域の農業は宇陀ごぼうやホウレンソウ等の高原野菜など地域の気候や土壌特性をいかした農業生産が行われていました。しかし水田は山間谷地田が多く、畑は傾斜地に点在していることなどから、生産性の低い農業が行われている状況でした。
 一方、鉄道、道路等の交通網の整備は、地域の農家の兼業化を一層進展させましたが、京阪神等の大消費地へのアクセスが向上し、生鮮野菜の供給基地として高いポテンシャルを有していました。
 このため、地域に広がる山林等を畑として造成するとともに、未整備であった水田の区画整理を行い、経営規模の拡大と地域特性を活かした野菜、花き等の作物を導入することにより、地域の農業構造の改善及び地域農業の発展に寄与することをめざすこととなりました。

2)大和名茶の生産地(北部)

大和茶発祥の碑(仏隆寺) 

 北部地域の農業は、内陸高原地帯のやや冷涼で、朝霧が多い気候を活かし、古くから銘茶(大和茶)の生産地で、大規模消費地にも近く、茶作を中心とした稲作や野菜との複合経営がなされていました。しかし、水田、畑(茶園を含む)ともに中山間地域特有の起伏と複雑な地形から、経営面積は零細で不整形・狭小でした。特にお茶の生産地としては地形条件が複雑で規模が小さいことから生産性が低く、産地間競争では厳しい状況にありました。さらに、かんがい用水の水源は乏しく安定的な用水の確保が困難な状況で、農業生産性の向上が困難な状況でした。
 このため、地域に広がる山林等の農地造成と、点在する水田の区画整理を行うとともに、水田・畑に対するかんがい施設の整備を行い、経営規模の拡大と生産性の向上により農業経営の安定と、地域農業の発展を図ることとなりました。

「お茶発祥の地」

 弘法大師が大同元年(806年)唐から茶の種子を持ち帰り、宇陀市赤埴の地、仏隆寺に播種したのが大和茶の発祥と言われています。現在も尾根を接する京都府、滋賀県、三重県などとともに古くから高品質を誇る一大「銘茶の産地」として知られています。
 仏隆寺は室生寺の末寺にあたり、平安時代前期・西暦850年に空海の高弟・堅恵(けんね)によって創建されたと言われています。仏隆寺には、茶の種子とともに空海が持ち帰ったとされる茶臼が現在も保存されており、茶樹もまた仏隆寺の境内に保存されています。
 (お茶がいつどのようにして日本に伝えられたかに関しては諸説ある。鎌倉時代に栄西が中国から茶の苗木を持ち帰って九州の脊振山で栽培したのが最初とするのが定説であったが、近年は平安時代に空海が種子を持ち帰ったとする説も有力になっている。)

3)農地造成の課題

昔話その1 天狗のけんか(青葉山と神野山)

天狗のケンカ

 「昔、神野山には赤天狗が住んでおり杉の木が一本生えているだけの禿げ山だった。一方、青葉山には青天狗が住んでおり緑豊かでたくさんの草木が生い茂っていた。しかし、天狗達は互いに仲が悪く、いつも喧嘩ばかりしていた。
 ある時、ささいなことから喧嘩を始め、青葉山の天狗はたいへん怒って草木や岩を手当たり次第に神野山へ投げた。喧嘩が終わってみると、青葉山は元の草木がなくなり岩だらけの禿げ山となり、神野山は飛んできた岩で鍋倉谷ができて、山の頂上に至るまで草木が生い茂るようになった。八十八夜のころになると、つつじの花が山頂に咲き乱れるようになったという。」山添村「村の語りべ」  今、神野山の頂上付近に建設された1号吐水槽から南東の方向を眺めると、ちょうど正面に青葉山の大沢団地と51号吐水槽、室生村浄水場が白く見えます。この間直線距離で約五qほどですが、1号吐水槽の水は、国営事業の一号・五の一号幹線水路(約十q程度)を経由して送水できるようになりました。
 昔話にあるように青葉山は農地造成するには岩盤が固く表土も少ないなど厳しい条件でした。事業の最終段階でパイプラインの埋設工事で発生する残土から良質土を集積して表土として搬入し耕土改良を行いました。その後、大沢団地には新規就農者の入植もあり、ブルーベリー等が特産物として栽培されています。

4)圃場整備の埋蔵文化財問題と環境問題:「ダルマガエル」

 奈良県は歴史的に古くから開かれ県内いたるところに埋蔵文化財があり、圃場整備など面的な農業基盤整備が進んでいませんでした。大和高原地域では、ようやく国営総合農地開発によって、分散した既耕地の整備を造成農地と一体的に整備することとなりました。 
 平成の時代となって環境問題が全国的に重点課題となりました。一般に農業基盤整備等の土木工事と環境問題とは相反する側面が多いといわれますが、関係団体と率直な意見交換を行い、対応策を検討することが求められます。

 ダルマガエル(都祁村)
 大和高原地域でも工事の実施に伴って、奈良県レッドデータブックにおいて「絶滅寸前種」(環境省のレッドデータブックでは「絶滅危惧U類」(1997年のカテゴリー))に指定されている「ナゴヤダルマガエル」の生息が確認されました。
 中山間地域では地形条件が厳しく過疎高齢化が進んでいることから、農業基盤整備を実施して営農の機械化を図らなければ農地の維持すら困難で耕作放棄される運命にあります。耕作放棄された水田に水を引く人はおらずカエルの生息も困難になります。里山の二次的な自然を守るためには健全な農業の育成が不可欠です。
 当時国営事業所を中心として勉強会「カエルの学校」、生息調査、対策工法、モニタリングに取り組み、関係団体や地元の理解と協力を得て事業を進めることができました。区画整理の施工に当たっては、工事着手前に生息するダルマガエルを捕獲し、隣接する水田に移動するともに、小動物が這い出しやすいスロープ付の水路を設置するなど保護対策を行ってきました。事業完了後においては、土地改良区が地元小学生、地域住民及び都市住民とともに、個体数調査を行っており、調査を開始した平成12年は300匹程度でしたが、平成24年は1,000匹以上が確認され、その数は徐々に増えてきており、水田の豊かな生態系が保全されています。

3.農業水利開発の課題 「神々の大地を潤す」

宇太水分神社

 「豊芦原瑞穂国」(とよあしはらみずほのくに)と称されたわが国では、稲作に欠かせない「水」は、何よりも大切にされ、水源地には水の配分・調節をする地を信仰の対象として、水分(みくまり)神社が祀られています。
 大和地方では四水分神として葛木(かつらぎ)、吉野、都祁(つげ)、宇太(うだ)、の四社が奉られていますが、その内3社が大和高原や周辺にあることから、水源地として古くから知られ大切に守られてきたことが伺えます。 
 大和高原から眼下に広がる大和平野を眺望しながら水利のことを考えると違った側面が見えてきます。大和平野は「水土の礎」十津川紀の川土地改良事業において「300年におよぶ大和の悲願、吉野川分水」と紹介されているように、日本の水資源開発の手本と評価されています。一般に分水計画は新規利水地に絶大な開発効果を及ぼすことから、開発功労者をたたえ歴史的な偉業として評価されるのは当然のことですが、分水に抵抗した下流の理解もまた重要です。下流域にも旱魃と戦ってきた農民の存在があり、その多くは旱魃と背中合わせの洪水被害にも苦しんできた地域の歴史があり、水害のリスクを負わない分水計画への不満は想像できるところです。
 大和高原においてもかつて宇陀川から大和平野への分水問題がありました。その中でもうひとつ忘れてならないのは水源地の旱魃問題です。下流の京阪神地域が豊かな水資源を活用して発展する一方で、水源地である大和高原地域は、庭先に降った雨を有効に使うこともできず、中山間地として過疎高齢化により地域農業を維持することも困難な厳しい状況にありました。
 一方、大和高原北部地区は古くからお茶の生産が行われてきましたが、朝霧の多い特異な地勢条件や天水を活用した伝統的な営農方式であったことから灌漑農業の経験がなく、農業用水の必要性について議論がありました。

 国営総合農地開発「大和高原北部地区」の事業の完了に向けた計画変更の資料を整理していく中で、上津ダム着工に向けた昭和63年3月26日付けの地元首長、6市村長連盟によるダム建設に向けての連判状(要望書)が出てきました。
 それを読むと地域に降った雨を地域のために是が非でも使いたい、そのためには「地元のためのダム」を何としても建設したいとする地域の悲願を感じ取ることができます。

「昔話その1(雨乞いと弁天池:山添村、村の語りべ)

 大和高原一帯は雨雲を捕らえるほど突出した高い山がないために、沢が浅く干ばつになると農業用水どころか、飲み水にも困ることがよくありました。
 神野山は標高619mとそれほど高い山ではありませんが、大和高原ではどこからでも眺められ、なだらかに美しく神聖な山として麓の人に親しまれてきました。
 何日も雨が降らないと、神野山の裾野の五ヶ大字から松明を持って、ホラ貝を吹いて太鼓をたたき「雨もたれ、雨もたれ」と言いながら山頂まで登り、松明を燃やして雨乞いをしました。この雨乞いで、三日の内に雨が降ると、村中で御仏に一荷餅を持ってお参りしました。それでも雨が降らないときは、最後の手段として、弁天池の奥にある「鏡池」の水を換えると大雨が降ると言い伝えられています。」

上津ダム全景

 山添村「村の語り部」にある、松明を手に雨乞いのために集まった神野山の五ヶ大字集落はダムの下流域ではなく上流域に位置し、水源地でさえ旱魃で苦しんでいたことがわかります。
 今、神野山の麓に上津ダムが建設され、その水はおそらくかつて松明を持って登ったであろう農道沿いに埋設された1号送水路により神野山の頂上、弁天池の近くに建設された一号吐水槽にポンプでいったん揚水貯留され、ここから大和高原の各地、二市四村にパイプラインで安定的に送水できるようになりました。
 上津ダムの水は、現代に生きる人々だけではなく、千年以上にわたり干ばつと戦い苦しんできた先人達の永い永い念願であるとともに、水源地でもある神々の大地を潤す大切な役割を担っているのです。

「香酔峠とスズラン」余話

 榛原町から裏山を越えて大和高原北部地区の受益地へ行くたびに通る峠の名前は「香酔峠」といい、地名としては一風変わっている。
 南北朝動乱の時代、後醍醐天皇が吉野への道中にこの峠を通ったと言われ、神武東征ゆかりの鳥見山(黄金に輝く鳥がこの山から飛来して神武軍を救ったといわれる)の尾根筋に当たる。
 女子供達を伴ってこの峠を登るのは大変なことだった。おそらく頂上で一休みしたと思われる。その時、辺り一面からすがすがしい香りが漂ってきた。頂上一帯はスズランの群生地だったのだ。後日、厳しい道中を慰めてくれた花畑を思い起こし「香水峠」と命名したと言われている。
 歴史上の由来が地名として残されていることは興味深いことであるが、実はその峠の頂上近くには今もスズランの南限地として「吐山スズラン群生地」をはじめ何カ所か保護地区として残されている。古文書に記載された風景や史実が山河などの地形や地名に残されていることはよくあるが、生物や生態系として残っているということは珍しく素晴らしいことである。

4.未来に向けて

蕎麦祭り(南部笠地区)

 南部の造成・整備された農地では、ほうれんそう、だいこん等の産地形成がなされているほか、新たな作物として、そば(13ha)やブルーベリー(3ha)及び花きが導入され、本地域の特産品となってきています。
 そばについては、地元でできたそばを提供するため、桜井市に「笠そば処」が開設され、そばの販売の伸びとともに作付面積も増加傾向にあるほか、産地としての知名度も周辺都市部において定着しつつあり、今後安定した需要が見込まれています。

造成されたお茶畑(北部奈良4団地)
 また、ブルーベリーについては、「あきのブルーベリークラブ」が発足し、栽培からジャム、ペースト等の加工・製品化までを行い、無農薬で栽培された安全で安心なブルーベリーとして消費者から着実な評価を受けています。事業を契機として関係市町には4つの直売所が設置され、平成16年には31万人が訪れ、総販売額は3億円を超えています。
 造成地等で生産されたそばやブルーベリー、野菜類等の農産物の加工・販売施設の設置により、都市住民との交流拠点が創出され、イベントの開催等の取組と併せて地域の活性化に貢献しています。
 北部地区の特徴として、茶生葉を荒茶へ加工するための自動制御荒茶加工施設(FA工場)を運営している組織が6組合あり、その受益面積は281.6haに及びます。この組合の設立により、経営の合理化が図られ、組合員各戸の経営規模面積の拡大に繋がっています。茶園管理については農地造成地を中心に乗用型摘採機の導入が進み、摘採等茶園管理の省力化が図られています。また、地区内に建設された奈良県農業協同組合広域茶流通センターを中心として大和茶の消費拡大等を行い「大和茶」の認知度の向上を図っています。また、首都圏や近畿圏の著名なホテルにおいて高級煎茶やオリジナル商品の販売を通じ「大和茶」のブランドイメージを高める活動も行なわれています。

5.事業概要

大和高原南部農地開発
受益面積:559ha (事業完了時点。以下同じ。)
受益者数:1,047人
主要工事:農地造成:317ha、区画整理:242ha
貯水池:86ヵ所、揚水機場:19ヵ所、支線用水路:14.3km
支線道路:66.6km
事業期間: 昭和51年度〜平成11年度
事業費: 271億円
関連事業: なし

大和高原北部農地開発
受益面積: 1,821ha(事業完了時点。以下同じ。)
受益戸数: 2,901戸
主要工事: 農地造成355ha、区画整理355ha、
上津ダム(堤高63.5m、堤長264m、有効貯水量5,120千m)、
揚水機場2箇所、用水路84.7km、 支線道路26.4km
事業期間:
昭和50年度〜平成14年度(完了公告:平成15年度)
(第1回計画変更:平成3年度、第2回計画変更:平成14年度)
事業費: 73,710百万円(決算額)
関連事業: 県営畑地帯総合整備事業
共同事業: 上水道事業

引用、参考文献
山添村史、村の語りべ
大和高原南部事業史
大和高原北部事業史
「宇陀川二千年史」宇陀川土地改良区S48 中貞夫編

(40字×36行×8〜12ページ)
下線部は筆者独自の解釈によって記載しているので、記載内容について要検討。(清野)