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戦後の国営事業





 

 

 

 


1.始めに

 屋久島と並ぶ日本有数の多雨地帯である大台ヶ原は、紀伊半島の南東に位置し、熊野灘まで20q足らずという距離にあり、標高差1,500mの斜面から成っています。台風の時期には、この斜面を太平洋・熊野灘の湿気をたくさん含んだ風が吹き上げ、急速に冷やされて雲ができ、大雨を降らせています。

 大台ヶ原に降った雨は沢水・渓流を太くして吉野川となり奈良県の山間部を北西に蛇行しやがて西に方向を変え、下流の和歌山県に入ると紀の川と名前を変え、沿岸にひろがる紀伊平野を貫流し和歌山市で紀淡海峡に注いでいます。

南海道の絶景・妹背山と紀の川(和歌山県かつらぎ町)

 吉野川・紀の川は全長136kmあり、近畿地方でも有数の一級河川ですが、特筆すべきはその水害の多さです。江戸年間に40数回、明治にいたっては45年間に17回と、近代に入ってからも流域はほぼ2年半に1回の割で洪水に見舞われています。

 ところが水害と対極の水利用の面では、紀伊平野の大部分は雨が少なく、また沿岸高台の水田、果樹園は水源を溜池、渓流水に頼っており干ばつに悩まされていました。悠久の流れを眼下に河川本流からの取水・導水施設が不十分で度々干ばつを被っていたため、地域の人々にとって安定した農業用水の確保は永年の夢でした。

 隣県の奈良県の大和平野でも、その主水源である大和川水系は流域が狭いうえ雨が少なく、月夜にも焼けると言われるほど著しい干ばつ常襲地帯でした。このため吉野川から大和平野への分水(流域変更)は300年来の悲願となっていました。しかし、吉野川分水構想は、大和平野だけでなく紀伊平野の水不足をも同時に解決する総合的な計画でなければ実現は不可能でした。

※「紀の川」……河川法では「紀ノ川」となっているがここでは「紀の川用水」の「紀の川」に表記を統一。

2.地域の概況と水利開発の歴史

 紀伊平野の水利開発は、垂仁天皇(在位99年)の時代に開削された宮井用水に始まるとされています。

 宮井用水は全長28qあり、今も紀の川最下流の水田を潤している現役の水路です。その成立はこの地の豪族であった紀氏に関係し、1世紀はともかくとして4〜5世紀にまで遡ることができるようです。

 中世にも文覚(1139〜1203)や応其上人(1537〜1608)らの高僧によって農業土木事業がおこなわれていますが、紀の川に本格的な堰を設けて取水するようになるのは、江戸時代以降のことです。

藤崎井(和歌山県紀の川市)

 1699年、紀州藩の新田開発の一環として藤崎井が、1707年には小田井の開削が始まっています。我国の農業土木の先人である大畑才蔵(1642〜1720)や井澤弥惣兵衛(1654〜1738)らが活躍したこれら一連の用水路は、サイフォンや水路橋などを駆使したもので、今日に至るまで紀の川沿岸の用水系統の骨格を形成しています。

 さて、昭和20〜30年代のことです。 紀伊平野では、水田が発達しその面積は11,000haにおよんでいました。このうち6,000haのかんがい用水は紀の川から取水されており、5,000haは渓流水利用の溜池群に依存していました。

 紀の川からの取水施設には、上流から小田・七郷・藤崎・安楽川・小倉・宮・六箇・新六箇の8か所の井堰(頭首工)がありました。しかしこれら井堰がかりの水田は、一般に保水能力が小さいために用水量を多く必要とし、水路が不完全であるために末端まで用水をゆき渡らせることに多くの管理労力を費やしていました。

 また各井堰は、利水者間の紛争を避けるため、その構造を木工沈床とし、下流に透水させていました。さらに紀の川が大台ケ原を水源としているので各井堰は幾度も洪水に見舞われ、昭和28年の洪水では全井堰が流出あるいはそれに近い壊滅的な被害を受けていました。

 一方、紀伊平野の各井堰がかりの背後には段丘上の水田及び山腹には果樹園が東西に連なっていました。 この水田地帯のうち相当な面積は、紀州藩主吉宗公時代に、大畑才蔵とこれに続く人びとの血のにじむ努力の結果、紀の川本流取水の小田井、藤崎井掛りに一部は編入されていましたが、その残りの大きな面積は溜池がかりとしてなお干ばつには極めて弱い地帯として水不足に泣かされていました。

 また山腹の果樹園は、“紀州みかん”で代表される柑橘類と富有柿が、それぞれ国内有数の主産地を形成していました。しかしかんがい施設がないため、品質・収量が天候によって左右されて経営が安定しない状態が続いていました。

 このように紀伊平野では各井堰の改修の必要性や高台部の農業用水の不足に悩まされていました。他方、大和平野でもかんがい用水が不足していたため、やむを得ず天水利用の畑作がおこなわれていました。このことが奈良・和歌山両県にまたがる十津川紀の川総合開発に結実していきました。

3.十津川・紀の川総合開発と紀の川用水土地改良事業

(1)十津川紀の川総合開発

 十津川紀の川総合開発は、戦後、昭和22年に経済安定本部が、我国に残された唯一の資源である河川水を高度に活用する目的で選んだ全国の12地域の総合開発構想の一つです。この事業計画は、関係各省庁と奈良・和歌山両県関係者によって幾度となく討議が重ねられ、3ケ年の調査を経て、昭和24年10月に事業内容・施工順位などが取り決められました。これは通称“プルニエ協定”と呼ばれており、翌昭和25年6月に正式調印がおこなわれました。ついで土地改良法による事業開始公告手続を経て昭和29年4月に十津川・紀の川土地改良事業計画が確定しています。

 この事業計画は、紀の川上流に大迫・津風呂・山田の3ダムを建設し、別に十津川に建設される猿谷ダムを合わせ、紀伊平野11,000ha、大和平野10,000haの水田用水を充足し、あわせて発電を行う内容となっています。ここで紀伊平野の水田用水を安定して取水するために、井堰を小田・藤崎・岩出・新六箇の4箇所に統合整備して、大和平野の水田用水は下渕頭首工と分水路を新設して導水する計画としています。

十津川紀の川総合開発事業概要図

 この当初計画では、現在の紀の川用水の受益水田である紀の川沿岸高台の溜池ががり水田の用水不足を解消するために、区域内水田5,000haのうち1,500haについて渇水期には紀の川の水を補給できる施設を整えて溜池の負担を軽減することとなっていました。その方法は紀の川の水を4井堰で取水して各個にポンプ揚水する計画でした。

 一方、十津川・紀の川土地改良事業開始後数年を経る間に国内の農業事情が急速に変化してきました。もともとこの事業は戦後の食糧の確保と増産をはかることを目的として推進されてきましたが、昭和30年代に入って国民の米に対する需要がゆるみ、畑作物・果樹の需要が増大して受益地内でも畑地かんがいの要望が高まってきたのです。

 そのころ(昭和33〜34年)、十津川・紀の川土地改良事業の農業と他事業との間の費用負担額の振分けが奈良・和歌山両県の間で問題となっていました。当初計画では農業用水と上工用水を確保することとしていましたが、両県の費用負担額は「農業その他」として区分が明確にされていませんでしたので、これを振分ける必要が生じていたのです。

 そこで農林水産省(当時農林省)では、農業情勢の変化に対応してあらたに生じた必要を充足するために、事業計画の内容を次のとおり変更しました。

 紀伊平野では畑地かんがいを新たに行うこととし、その水源として上工用水に使用する予定であったダム依存水量を充てることによって、和歌山県の費用負担は農業のみとする。また、大和平野では上工用水として補給する水量1.07m3/sを上水道用水のみに使用する計画に変更する。

 すなわち紀伊平野では、畑地かんがいの計画面積は2,000haで、その用水には上工用水のダム依存量518万m3を用途転用し、これに農地転用によって生じた水田余剰水172万m3を加えた690万m3を充てるというものです。これが紀の川用水土地改良事業の誕生の経緯です。

(2)紀の川用水土地改良事業

 十津川・紀の川総合開発の一貫として、大迫・津風呂・猿谷(国土交通省施行)・山田の4ダムをはじめ、頭首工、導水路、幹線水路等が各々国営事業として実施されました。このうち紀の川用水土地改良事業は、紀伊平野の既存のかんがい施設とは別水利系統で新たに用水補給をおこなうためのかんがい施設として西吉野頭首工と幹線水路が造成されました。

    ・国営十津川紀の川土地改良事業
    工  期 : 昭和28年度 昭和58年度
    造成施設 : 大迫ダム、津風呂ダム、山田ダム、下渕頭首工、大和平野導水路及び幹線水路
    ・国営紀の川災害復旧農業水利事業
    工  期 : 昭和28年度〜昭和33年度
    造成施設 : 小田、藤崎、岩出、新六ケ頭首工並びに連絡水路
    ・国営大和平野土地改良事業(大和平野特定土地改良事業)
    工  期 : 昭和33年度〜昭和49年度
    造成施設 : 大和平野東部幹線並びに西部幹線水路
    ・国営紀の川用水土地改良事業
    工  期 : 昭和39年度〜昭和59年度
    造成施設 : 西吉野頭首工並びに幹線水路

 紀の川用水土地改良事業の施設計画は、当初から事業に含まれていた「新紀の川がかり」の高台水田に畑地かんがい区域を加え4,000ha余に対して用水施設新設の検討を行った結果、「新紀の川がかり水田」に対して従来計画した井堰水路から個々に揚水する施設計画に畑地かんがい用水を含める案は維持管理面で不経済となるので、紀の川用水としてあらたに紀の川支流大和丹生川の水を自然取入れする幹線水路を新設することとなりました。

紀の川沿岸高台には溜池が多い
(和歌山県紀の川市)

 つまり紀の川右岸に取り残された溜池がかり地帯のうち2,400haを新用水のかんがい範囲内に編入し、総合開発で生み出した水を注ぎこみ、干ばつからこの地域を永遠に解放し、それだけではなく新設幹線水路の要所、要所に強力なポンプアップ設備をして山腹の果樹園2000haにも水を押し上げて干ばつ時の畑地かんがいに充て、併せて多目的スプリンクラーによって病害虫防除の薬剤散布、水肥施肥もやって画期的省力化に役立たせようというものでした。新用水出現によって従来の溜池がかりからが分離され、残存するため池掛り水田がそれだけ干ばつに強くなるわけです。

猿谷ダム(奈良県五條市)

 紀の川用水の水源は猿谷ダムです。この十津川分水としての猿谷ダムは、昭和25年、奈良県(旧吉野郡大塔村)の十津川に県営事業として着手しましたが、昭和27年、国土交通省(当時建設省)の直轄事業になり、昭和32年、本体が完成しました。ダム直轄管理は昭和33年4月から開始されています。この猿谷ダムにより十津川の水が発電用導水トンネルにより天辻峠を越えて紀の川水系大和丹生川に放流され、その水が西吉野頭首工により取り入れられて紀の川用水の安定水源となっています。

 このように現在の紀の川用水は、十津川・紀の川土地改良事業計画から発展誕生したこと、その水源を他府県・他水系の国土交通省直轄管理ダムに依存している点において全国的にまれな例と言えます。

4.紀の川用水土地改良事業の計画内容

(1)目的

 本事業の目的は、紀の川沿岸の高台にあるため池掛かりの水田にたいする用水補給と、それより高い位置にある傾斜地や山腹で栽培されているみかん園などにあらたに畑地かんがいを行って、農業生産の基礎条件を整備することにより、営農形態の合理化と生産の選択的拡大を行い、農業経営を安定させます。

(2)地域及び地積

 事業地域は、紀の川沿岸の橋本市から和歌山市に至る間の2市7町(当時)にまたがっています。受益面積は水田2.391ha、果樹畑2,051ha、合計4,442haです。

(3)現況

 1)気象

 紀伊平野の年間降水量は1,500o〜2,000oであり、気候は四季を通じて温暖で、農業に最適の気象条件です。

 2)水利状況

 紀の川用水地区の受益水田は、紀の川の4井堰によって取水される水田より上位にある小渓流・溜池がかりの水田であって、右岸の高台を主に、左岸の橋本市恋野・学文路方面の高台水田をあわせている渓流からは簡易堰または自然取入の取水地点51ケ所によって122haを、溜池池は342カ所によって2,269haをそれぞれかんがいしています。

 堰がかりの用水不足は中程度ですが、上流優先取水のため渇水時には不満が多い。溜池がかりの用水不足は堰がかりより大きく、夜間に紀の川取水井堰の用水路から盗水を常とするものさえあって紛争が絶えません。果樹畑2,515haは降雨のみによっているので、品質の向上・収量の増加が見込めず、お天気次第の低い生産性に悩んでいます。

 3)営農状況

 地区の農家の、1戸あたり耕作面積は、水田0.4ha、畑0.46ha、計0.86haで、経営面積が小さいので、農家は水稲収量の安定と果樹畑の収量・品質および生産性の向上を切実に願っています。

(4)主要工事計画

西吉野頭首工(奈良県五條市)

 水源は別途築造の猿谷ダム及び発電用導水トンネルから紀の川水系大和丹生川に放流される水とする。すなわち猿谷ダムによって満水位標高436mに貯水された十津川の水は9.6qのトンネルで天辻峠の下を潜り有効落差231mの西吉野第一発電所を経て紀の川水系の大和丹生川に放流される。大和丹生川では黒淵調整池でピーク発電を調整した後、4.9qのトンネルを通り有効落差77mの西吉野第二発電所で再び大和丹生川に標高101mで放流される。

 この西吉野第二発電所から400m下流に西吉野頭首工を設けて最大5.81m3/sを取水し、すぐに延長4qのトンネルによって和歌山県に入り、橋本市隅田地内で紀の川を口径2.1m・延長130mの水管橋で右岸に渡り那賀町打田町まで総延長35qの水路を新設する。

西吉野頭首工

堰長 21.40m

堰高2.05m

 

全面可動式

 

 

幹線水路工

延長35.315m

最大通水量5.81m3/s

 

工種別内訳

トンネル

23,377m

 

 

暗渠

4,537m

 

 

サイホン

3,042m

 

 

開渠

3,502m

 

 

水路(管)橋

857m

 

揚水機場

1ケ所

 

 

水管理施設

1式

 

西吉野頭首工(奈良県五條市)

5.紀の川用水土地改良事業の工事の経過

 一般に用水路工事は最上流から下流に向かって進み、工事の進捗にしたがってその施設を有効に利用して事業効果を発生増加させてゆくのが通例ですが、本事業の場合は当初から奈良・和歌山両県の間でプルニエ協定によって各施設の施工順序を定めており、よって先に計画策定済みの大和平野に導水用の下渕頭首工に先行して西吉野頭首工を施工することは不可能なので、受益の最上流である橋本市から工事が開始されています。

 このように本事業の幹線水路工事は和歌山県側からはじまり、43年度からは上流奈良県内の五条トンネル、次いで46年度の下渕頭首工に続いて西吉野頭首工に着工し、以後順調に工事進捗しています。

紀の川を横断する水管橋(和歌山県橋本市)

 本事業の幹線水路はトンネルが多いことが特徴の一つです。水路全長35qのうち、トンネルが23qと約70%を占めています。そのうち上流の五條市から橋本市西郊までの間の8ケ所7qは、中央構造線に沿う長瀞変成帯の片岩層内を通過し、橋本市街地北側を通過する区間では住民の強い要請を受けて夜間の発破作業は行われませんでした。

 橋本市以西のトンネル16qは紀の川北側山裾部の洪積世砂礫層内を通過し、固結度の低い湧水区間では圧気工法・水硝子系の薬注工法が採用され工事が進められました。

 また、高野口町名古曽地内では、当初開水路と暗渠で通過する予定でしたが人口急増によって地価が高騰し、別に都市側住民の用地提供拒否もあったことから路線の一部をトンネルに変更して通過しています。

 紀の川用水の幹線水路は延長が長いので、負担の公平を期するために、水路工本体を県営事業引継ぎ点まで完成させることを優先し、本体完成後に支線揚水施設工・水管理施設工に着手しています。全工事は昭和57年度にはほぼ完了しました。

6.紀伊平野農業の持続的発展のための課題と二期事業

   〜第二十津川紀の川土地改良事業と大和紀伊平野土地改良事業〜

 国営十津川紀の川土地改良事業及び国営紀の川用水土地改良事業等で造成されたかんがい施設(ダム、頭首工、農業用水路など)は農業の発展と地域の貴重な水源の確保に大きな役割を果たしてきました。しかし、これらの施設は築造後相当な年月が経過し、老朽化が著しく、安定的な農業用水確保が困難なうえ、補修等の維持管理に多くの労力を費やすようになってきました。

 また、両平野では、都市化の進展により農地面積がスプロール的に減少しているとともに、近年の農業を取り巻く情勢の変化等に伴い、土地利用、営農状況、農業用水の需要動向にも変化が生じていることから、施設機能もこれに効果的に対応することが急務となってきました。

 このため、時代に即応した農業用水を安定確保するとともに、都市化に伴う地域の水需要に対しても、今後とも安定的に供給を図る観点から、水利計画の見直しや老朽化した施設の改修整備、水管理の合理化等を図るため、国営第二十津川紀の川土地改良事業及び国営大和紀伊平野土地改良事業が実施されています。

 ・国営第二十津川紀の川土地改良事業
  工  期 : 昭和11年度〜
  改修施設 : 大迫ダム、津風呂ダム、下渕頭首工、西吉野頭首工、小田頭首
         工、藤崎頭首工
         岩出頭首工  (紀の川用水の西吉野頭首工を含む)

・国営大和紀伊平野土地改良事業
  工  期 : 昭和13年度〜
  改修施設 :  (大和平野)水路改修延長L=198.8q  (紀の川用水の幹線水路
         を含む)
          (紀伊平野)水路改修延長L=67.8q、山田ダム
  再編水量 : 0.487m3/S

改修整備された紀の川用水路(和歌山県橋本市)

 このうち第二十津川紀の川土地改良事業は、ダム、頭首工の基幹的農業水利施設の改修を行い、施設機能の維持及び安全性を確保して、営農形態の変化に体操した用水の安定供給に努め、農業生産の維持を図るものとして平成11年度に着工しました。第二十津川紀の川土地改良事業において改修整備対象である紀の川用水施設は西吉野頭首工です。

 また、大和紀伊平野土地改良事業は、大和平野及び紀伊平野において、農業用水路などの整備を行うことにより、農業用水の安定供給を図るとともに、併せて、この結果生み出される余剰水を新たに都市化に伴う地域の水道用水などに活用し、地域の水資源の有効活用に資するものとして平成13年度に着工しました。大和紀伊平野土地改良事業において改修整備対象である紀の川用水施設は幹線水路の一部です。

7.終わりに

 戦後の国土資源開発の要請により河川の総合開発が取り上げられ、事業完了した地域では、農業、発電、治水などに果たしている役割は大きく、かつ成果があがっています。

果樹園と紀の川用水路(和歌山県紀の川市)

 その一つである十津川・紀の川総合開発は、昭和22年に調査が開始され関係者の数多くの協議を経て、昭和25年より工事に着手し、昭和30年に猿谷ダム、昭和36年に山田ダム、津風呂ダム、昭和58年に大迫ダムと順次完成し、併行して大和平野、紀伊平野の頭首工、水路が工事完成しました。このような基幹的水利施設群は末端施設とともに今日の両平野の農業の持続的発展に寄与しています。

 第二の紀の川として沿岸高台に引かれた紀の川用水路には、十津川の水が滔々と流れています。この流れは透き通るような清水であり、途中開水路が少ないこともあって、末端まで保持される水質の良さを誇っています。

 このような紀の川用水路を適正に維持保全し、水源地域にも目を向けながら紀伊平野地域農業の持続的発展を支える水土の礎として大切にしていきたいものです。

引用・参考文献
・近畿農政局紀ノ川用水農業水利事業所 「紀の川工事誌」 昭和59年9月 
・近畿農政局十津川紀の川農業水利事業所 「十津川・紀の川事業誌」 昭和60年3月
・的場鹿五郎著「紀の川分水物語」 昭和60年10月
・和歌山県農村振興技術連盟 「和歌山の野行土木・第18号」 平成15年
・大和平野土地改良区 「大和平野土地改良区五十周年史」 平成17年2月
・土地改良建設協会 「農業土木遺産を訪ねて」 平成20年10月
・奈良県立橿原考古学研究所 「吉野・紀ノ川悠久の流れ」 平成5年4月
・近畿農政局などの関係機関ホームページ
・写真はいずれも筆者撮影(2014年9月)