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人間の根元的な水利用、「飲料水」「農業用水」その両方を潤す広域水利ネットワークと水管理システム -東播用水農業水利事業-
近畿エリア
戦後の国営事業





条里制遺跡と五ヶ井堰



「印南野台地」のため池群
東播地域における古墳と条理遺構の分布
(兵庫県教育委員会埋蔵文化財資料より作成)
五ヶ井堰付近絵図
「注}文化13年(1816)
五ヶ井・新井掛りの村々溝手絵図による
 この地方の川沿いでは、古くから稲作が行われてたことが古墳や条里制の跡で知ることが出来ます。この遺構は大化改新以前、すでに条里制による土地の改良が進められていたことを示しています。
 聖徳太子によって造られたとされる日本最古(推古14年(607年)建造)の取水施設五ヶ井。これは加古川下流の中州を利用して堰から水を引いたもので、東岸一帯200haを潤したと伝えられています。このようなかんがいの技術が稲作生産を発展させ、その結果、富の蓄積による巨大な古墳文化がこの平野に築かれていきました。
 さらにこの堰は、室町時代に入ると5つの地域を潤したことから五ヶ井堰と呼ばれるようになり、その頃には700haもの水田を潤すまでに発展していました。そして加古川大堰が完成する1989年までのおよそ1400年もの間利用され続けていました。
 このように、川沿いの低地の地域では川から水を引くことが可能で古くから用水施設が造られましたが、一方、川より高い台地へ水を引くことは当時の技術では不可能だったため、まったく手つかずの状態が続いていました。

未開の印南野台地



 平安時代、この地方の様子を、清少納言は枕草子で次のように歌っています。「野は嵯峨野、さらなり。印南野。交野。狛野……」これは、美しい野原といえば第一に嵯峨野を挙げ、その次に印南野、交野、狛野……がつづくという意味の歌です。「野」とは、人の手が入っていない未開の地であると考えられ、水が乏しいため田畑にされることはなく、まったくといって良いほど放置された草原地帯であったことを物語っています。

印南野台地高低図
兵庫大学 ため池研究チーム作成




兵庫県 ―東播用水農業水利事業