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国内初の国営干拓事業 ―京都府 巨椋池干拓事業
近畿エリア
戦後の国営事業





農業と漁業



巨椋池の流域面積
大池をめぐる村々
 乱流する3本の川が流れ込み、広大な沼地のような状態であった古代の巨椋池周辺は、当然のことながら、農業に適した土地ではありませんでした。沿岸の低地では、わずかな雨量でも水位が上昇し、農地はすぐに水に浸かってしまいます。条里制もしかれたようですが、年貢を納めるほどの収穫が望めたかどうか。むしろ、漁業を生業とする人々の方が多かったものと思われます。河川が流れ込む巨椋池では、コイ、フナ、ナマズ、ウナギなど、およそ四十種類にもおよぶ魚や、タニシ、シジミなどの貝を捕ることができたため、沿岸には多くの漁師が生活していました。
 中世に入ると、平等院のそばに水車が作られ、宇治市寄りの小倉村では、宇治橋の上流から水を引き入れるようになります。この水車は、『源氏物語』の挿絵などにも描かれており、鎌倉時代以前から、すでに水路は整備されていたようです。()そのすぐ南の伊勢田村や巨椋池南岸の村々では、木津川から水が引かれました。しかし、こうした沿岸の低地は、巨椋池の水位とほとんど高さが変わらないため、新田を拓いても、水はけが悪く、収穫はままならなかったようです。

※・・・ 宇治川筋の水車は、古くは、平安時代から使われ始めたようで、次第にその数を増やし、ついには沿岸で百以上にも達したといいます。『徒然草』などの書物や『石山寺縁起絵巻』などの挿絵にも描かれ、16世紀ごろには、多くの名所図絵に登場する川の風物詩となっていました。



京都府 ―巨椋池干拓事業