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戦後の国営事業






 


1.出水平野の成立ち

出水平野地区位置図

 出水平野は、鹿児島県の北西部で熊本県との県境に接した位置にあり、南西部を九州山脈から派生する紫尾山脈、東部を肥薩山脈に囲まれ、北の八代海に向かって展開する南北に約8km、東西に約12kmの地域です。
 平野は、紫尾山脈に源を発する米ノ津川、高尾野川、野田川等の河川から運ばれた土砂により造られた山麓部扇状地で出水市松山及び野添を扇頂とする2つの洪積台地(大野原台地、野添台地)と、これらの河川沿いに細長く展開する河岸段丘部と海岸沿いで進んだ自然沖積部及び干拓地からなる沖積平野で形成されています。
 出水市上知識に出水貝塚があります。ここは、海岸から4km程の所で大野原台地の扇側部に当たりますが、出土品から縄文時代中期から後期の貝塚であると判明しており、当時はこの付近まで海が入り込んでいたと考えられます。
 出水貝塚付近では弥生時代〜古墳時代の遺跡も発掘されていますが、地域開発が進んだのは奈良時代からと考えられ、平安時代の承平年間(931年〜938年)に出された『和名類聚抄(和名抄)』には「出水郡五郷(大家郷・国形郷・借家郷・山内郷・勢度郷)に分かつ」との記録があることから、この頃には丘陵地帯から河岸段丘及び自然沖積地帯に向かって相当開発が進んでいたものと思われます。
 その後も米ノ津川等の河口部や海岸沿いの自然沖積地帯に向かって開発が進みましたが、河川の氾濫を防ぐ堤防等の建設はありませんでした。このため毎年のように水害を受けていたようです。
 地域開発が大きく進んだのは江戸時代になってからで、河川では治水、海岸部では干拓を目的とした堤防の築造が、また、平坦部では用水路の建設が進められました。戦後、海岸部で国営出水干拓建設事業によって西工区及び東工区の干拓地が造成され、平坦部及び台地部でも国営出水平野農業水利事業及びその関連事業により区画整理、かんがい用水路の再編・整備等が実施され、現在の出水平野が出来たのです。

2.出水平野の水土整備の歴史

(1)江戸時代の開発

米ノ津川右岸堤防(六月田土手)

 出水市は古くから北薩地域の交通の要衝の地で、江戸時代に入ると肥後と薩摩の国境のまちとして藩内の他の地域に先んじて武士(郷士)の住宅兼陣地として「外城」の建設が進められました。
 出水の外城は藩内最大の規模を誇り、藩内各地から選りすぐった勇猛な武士(郷士)を居住させたと言われています。※1
 藩では財政基盤を強化するため、これらの武士(郷士)や農民に治水、かんがい、開墾(開田)、干拓などの事業を奨励し、藩自らも直営でこれらの事業を推進しました。
 この出水平野で江戸時代に行われた主な事業には、米ノ津川の氾濫を防止し、流路を安定させるための堤防(右岸:六月田土手、左岸:高次田土手)の築造、沖田溝及び蒲池溝を始めとした六月田溝、五万石溝等のかんがい用水路及びその取水用の堰の建設、干拓関係で今釜田圃、荘田圃、江内新地等の新田開発があります。
 現在の出水平野の原形は江戸時代に作られたといえるのです。

静かな佇まいを見せる武家屋敷

※1 外城の政治上の中心地は「麓」と呼ばれており、出水の麓は面積約60ha、戸数150戸の規模に及んでいたとのことです。現在の出水市麓地区には武家屋敷や風格のある門等が残されており、地域一帯約44haは国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、当時の面影を偲ぶ静かな佇まいを見ることができます。

(2)かんがい用水路の整備

江戸時代に建設された米ノ津川水
系の主なかんがい用水路

 この地域の本格的なかんがい用水路の始まりは沖田溝と蒲池溝で、第三代出水地頭の山田昌巖※2の在職中である寛永6年(1629年)〜寛文9年(1669年)に建設されたと考えられています。沖田溝は米ノ津川本川に建設した大井手堰(現沖田大井手頭首工)から取水し、米ノ津川右岸沖田地域に導水する水路です。水路は割と平坦部を通過していますが、取水堰は川幅も広く流れもやや急流の地点に建設されており、建設当時はもとよりその後の維持管理にも相当の苦労が伴ったものと想像できます。
 蒲池溝は昌巖溝とも言われており、山田昌巖が、蒲池備中の養子となった次男の蒲池新助に命じて建設に当たらせた当時としては珍しい個人的な水路で、米ノ津川支流の軸谷川から取水し、その下流右岸側の萩の段や鯖渕原に導水する水路でした。工事は途中の硬い岩盤をくり抜く隧道が約60mもあるなどで困難を極め、窮状を見かねた出水郷士たちの協力によりようやく完成したとのことです。

今も残る蒲池溝(昌巌溝)

 その後、享保年代(1716年〜)に入ると米ノ津川及びその支流の平良川等では原田溝、六月田溝、五万石溝等の多くのかんがい用水路が建設されました。
 高尾野川及び野田川でも多くのかんがい施設が建設されたようですが、両河川とも流域面積が狭く流量も少なく不安定なものであったことから、高尾野川の八久保堰を除き他の施設規模は小さなものでした。

 

 

山田昌巌の墓
(市指定史跡)

※2 山田昌巖は島津家に仕え安土桃山時代から江戸時代初めにかけて活躍した武将で、朝鮮出兵や関ヶ原の戦いでの武勲は有名です。出水地頭に着任以来28年間その職にあり、優れた行政能力を発揮し、人材育成のために勤倹尚武を勧めるとともに、農地の開発、道路やかんがい施設の整備等を推進し産業の開発・振興に力を注ぎました。

 

 

 

 

(3)北薩五万石の総力を挙げた「五万石溝」の建設

石碑「衆力奏功」

 出水平野のほぼ中央に大野原台地があります。この台地に、近くを流れる水量の豊富な米ノ津川の水を引き開田することは地域の人々の長年の悲願でした。
 その願いを実現するため、第4代藩主島津吉貴の命により五万石溝の建設が始まりました。五万石溝の工事着工時期は定かではなく、宝永年代(1704年〜1711年)とも享保年代(1716年〜1735年)の初め頃とも言われていますが、米ノ津川の上流の下平野(現在の五万石頭首工地点)に堰を設けて取水し、水の頭、折小野、城山等の山麓を迂回し、大野原台地を横切り、洗切海岸(福ノ江)までの延長約20kmに及ぶ大規模な水路工事でした。工事は、北薩五万石の総力を挙げ20数年の歳月と当時の貨幣で70万貫※3と言われる費用をかけて享保19年(1734年)に完成し、開田面積約120ha、旧田補水約490haへのかんがいができるようになりました。

今も残る珍しい「二連の隧道」

 水路には山腹の岩盤をくり抜く隧道23ヶ所、鍋野川と平良川の底をくぐる底水道2ヶ所、樋之谷川と神戸川を交差する川渡し2ヶ所があり、勾配も約5000分の1の緩勾配で、岩盤はのみで彫る手作業であったことなどから、当時の技術や施工方法では大変難しい一大土木工事でした。

保存されている旧五万石水路の一部

 しかし、難工事の割には何故か記録らしい記録は残っておらず、工事の難所と思われる場所に「水神」や「衆力奏功」等と記された簡素な水神碑が建立されているのが散見される程度です。ただ、当時のこのような工事には地域の農民等が動員されていたことや、上流から23番目の最後の隧道が、「シヲ女貫」と呼ばれ、「シヲ」という娘の人身御供の話も語り継がれていること等から、動員された農民等地域住人の努力と不屈の忍耐によってこの工事が完成したことは容易に想像できます。

※3 江戸時代中期享保年代の小判1両は銭4000文(4貫文)で、現在の価格に換算すると約8万円に相当するとのことですから、70万貫は現在の価格で約140億円に相当します。 (700,000貫文÷4貫文×8万円=140億円)

(4)五万石溝の問題

平良川右岸の底水道入口跡
(市指定史跡)

 長い年月と莫大な経費を費やして完成した五万石溝ですが、その後は補修や改良が十分行われなかったため、年々水路も荒廃しその機能 が十分発揮されることはありませんでした。
 これは、水路がシラスや礫層を通る土水路であったことや岩部を通る水路も亀裂が多く、漏水量が多かったこと。また、度々災害を受け、補修等が必要であったものの、江戸時代の管理者であった地元郷士達は、補修等は農民の賦役が当然であると考え、自らはほとんど対策を取らなかったこと。更に、明治以降は管理者が直接の利用者である関係農民に移りましたが、漏水問題に加え上流側の過剰取水によって下流側への流下水量が極端に少なかったことなどの水配分問題もあり、満足な維持管理体制が整っていなかったことが原因と言われています。

今は使用されていないが、県営事業による
補修の跡が見える鍋野川の底水道

 戦後、食糧増産の必要性から五万石水路の補修工事が昭和24年(1949年)から4年間にわたり県営事業によって行われましたが、補修が多岐にわたることや資材難等もあり、漏水等に対する根本的な解決までには至りませんでした。
 このようなことから、大野原台地へのかんがい用水の供給は、国営出水平野農業水利事業の完成まで待たなければならなかったのです。

(5)出水平野の干拓の歴史

出水平野 干拓年表

 出水平野の干拓は、江戸時代に入り藩による新田開発として本格的に取り組みが進められました。その結果、元禄3年(1690年)に高尾野川及び野田川の河口部にあたる下水流、荘、野田の3地区約590haの干拓が完成しました。その後も干潟の発達とともに干拓が進められ、江戸時代だけで約1090haの干拓が完成しました。昭和時代に入ると、昭和5年(1930年)に築港(約20ha)、昭和40年(1965年)に国営出水干拓(約320ha)が完成し、総面積約1500haの干拓地が造成されました。

元禄元年(1688年)の海岸線とその後の干拓

 出水市は毎年1万羽以上のナベヅルやマナヅルが飛来し、越冬することでも有名で、多くの観光客が訪れています。越冬地は、国の特別天然記念物として「鹿児島県のツル及びその渡来地」と指定されていますが、その区域は江戸時代の干拓地である江内新地、古浜田圃、荒崎新地であり、地域の観光資源の一翼を担っています。※4

国営出水干拓西工区に舞う鶴

 ※4 出水の海岸に初めてツルが飛来したのは1700年頃と言われています。その後も、出水の海岸が遠浅で干満の差も大きかったことや干拓により農耕地が拡大したことなど、ツルの飛来地としての環境が良かったこと。また、江戸幕府がツルの保護を呼びかけ薩摩藩のそれに倣って捕獲を禁止したことからツルの飛来は続きました。
 しかし、明治時代に入ると乱獲が始まり、飛来数も極端に減少したようです。また、第2次世界大戦時には出水航空基地の影響もあり、終戦後の昭和22年の特別天然記念物に指定された時点では275羽まで減少していました。特別天然記念物への指定以降、給餌やねぐらの整備等の保護活動により、飛来数も増加し、平成4年には初めて1万羽以上が確認されるようになりました。

3.出水平野農業水利事業

(1)事業の経緯

高川ダム(上流右岸側より)

 出水平野農業水利事業は、昭和42年(1967年)10月に着手し、昭和53年(1978年)3月に完了しました。
 事業前、この地域では平坦部の水稲を中心に、葉たばこ、さつまいも、みかん、露地野菜、苗木等の生産が行われていました。
 しかし、水田の主な水源は米ノ津川を除いて水量の乏しい高尾野川や野田川などの小河川と湧水に依存していたことから、しばしば干ばつ被害を被る極めて不安定な営農を余儀なくされ、また、かんがい施設も老朽化が進行し、維持管理にも多大な労力と経費を必要としていました。

五万石幹線水路
(右上部は小原揚水機場)

 一方、大野原台地では江戸時代に開田された土地への用水供給元であるはずの五万石溝の機能が全く発揮されておらず、その他の土地もかんがい施設は全くありませんでした。また、野添台地も同様の状況で、両台地ともかんがい施設が全くない、天水のみに依存する状況であったことから、作物の選択や栽培に大きな障害となっており、さつまいも等の耐干性の作物を中心とした営農を余儀なくされていました。

整備された大野原台地の茶園

 このような状況を打開するため、鹿児島県は昭和29年(1954年)頃から農業基盤整備にかかる基本調査を開始し、かんがい施設の新設、改修、圃場整備等の検討を行いました。
 また、地元市町でも昭和31年(1956年)「出水平野総合開発期成同盟会(その後「出水平野総合開発推進協議会」に改組)」を設立し、国営かんがい排水事業等の実施による地域農業の振興に向けた事業化要望等の取り組みを行いました。
 地元の要請を受けた農林省(現農林水産省)では、昭和39年(1964年)に直轄調査地区に採択し、昭和41年(1966年)の全体実施設計を経て事業に着手しました。
 事業では、米ノ津川の支流である高川にダムを建設して、地区に必要な農業用水を新規に開発し、この用水を地区内に導くための頭首工、導水路、幹線水路及び畑地かんがい水路が新設されました。また、国営事業と関連して、県営かんがい排水事業で沖田大井頭首工や用水路等が整備され、更に圃場整備事業や畑地帯総合整備事業によって区画整理等も行われました。

大野原台地の植木栽培

 事業着手間もない昭和43年(1968年)には、畑地かんがいの効果を検証をするための試験地が設置され、昭和48年(1973年)には、県、関係市町、土地改良区及び農協等の関係団体で構成される「出水平野畑かん営農推進本部」の設立による営農推進体制も整備されるなど、地域農業の振興のためのいろいろな活動も組織的に行われました。

大野原台地のカボチャ栽培

 このような、ハード及びソフト対策の実施によって、事業実施後は大野原及び野添の両台地とも優良な畑作地域に変り、事業実施前に畑作物の約6割を占めていたさつまいもは1割程度まで大幅に減少し、みかん、茶及び植木・苗木栽培の増加や、露地栽培でソラマメ、エンドウ、カボチャなど、また、施設栽培でゴーヤ、ミニトマト、メロン、イチゴなど、多種多様な作物が選択的に栽培されるようになり、地域の土地生産性は大きく向上するとともに農業経営の安定化が図られたのです。

(2)事業概要

高川ダム全景

(1)事業工期
  昭和42年度〜昭和52年度

(2)受益市町村
  鹿児島県出水市(旧出水市及び旧高尾野町)

(3)受益面積
  3,157ha
 (内訳) 水田:1,717ha        
      畑 :1,490ha

(4)主要工事
  高川ダム:有効貯水量7,727千m
  五万石頭首工:最大取水量4.693m/S
  導水路:総延長5.4km(形式:暗渠及びトンネル)
  用水路:総延長27.8km(形式:開渠、暗渠、管水路)
  平古場調整池:最大貯水量57千m

出水平野農業水利事業 概要図

【引用・参考文献】

    ・出水市郷土誌(平成16年9月 出水市)
    ・高尾野町郷土誌(平成17年6月 高尾野町)
    ・出水の川と生活の歴史(平成3年3月 出水市教育委員会)
    ・出水市役所ホームページ
    ・九州農政局南部九州土地改良調査管理事務所ホームページ
    ・出水平野工事誌(昭和53年3月 九州農政局出水平野農業水利事業所)
    ・出水海岸保全事業誌(平成12年3月 九州農政局出水海岸保全事業所)