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1.隆起サンゴ礁の島

 喜界島は、鹿児島市から南南西に380km、奄美大島の東方約22kmの洋上にあり、面積56.9km、周囲48.6kmの隆起サンゴ礁で出来た小島です。
 喜界島最高位で、「聖なる台地」として奄美十景に数えられる百之台(EL224m)に分布するサンゴの年代は、12〜13万年前と推定されています。サンゴ礁は海面すれすれに形成される事から、その当時は島として海面上に姿を現しておらず、その後隆起したと考えられます。その平均隆起速度は224 m÷12〜13万年として約1.8m/1,000年(1.8mm/年)と南西諸島の中では最も隆起率の高い島となっています。(波照間島0.27 mm/年、与那国島0.18 mm/年) また、島は高さを異にする数段のサンゴ礁段丘で形成されており、その中の海抜20m以下の海岸部に広がる完新世の段丘は4段に分かれ、古い方から7,000〜6,000年前、5,000〜4,500年前、3,000〜2,500年前、1,500〜1,000年前の隆起と推定されています。
 ところで、島の周囲の海岸では、今も新しいサンゴ虫が生育の好条件に恵まれ、盛んに繁殖を続けており、海岸周縁は、全て裾礁※1となっています。
 気候は亜熱帯海洋性で温暖です。平均気温は4〜10月期で26.0℃、11〜3月期で17.5℃、降水量は年間平均で2,200mmですが、年度による降水量の差は大きく、その大半は梅雨・台風期に集中する傾向にあります。また、梅雨明けの6〜7月頃は降水量が少ないため干ばつになり易く、平成7年7月の降水量は、わずか2.6mmで干天日が40日以上も続き、成長したサトウキビが枯れる等農作物は大きな被害を受けました。
 島には山らしい山もなく、起伏の少ない平坦な地形で、河川らしい河川もありません。地層は、下層に島尻層と呼ばれる不透水性の泥岩・砂岩の互層が島全体の基盤を形成し、その上層を、スポンジのように多孔質で水を通しやすい琉球石灰岩が20〜40mの層を成して横たわっているため、地表水は地下に浸透し、地下川として流れるため、飲料水を得るためには、どうしても地下川を探し当てるか、段丘崖下や海岸沿いの汀線に湧水となっている所を見つけるしか有りませんでした。
※1きょしょう。ビーチにつながるサンゴ礁。裾礁が島を取り囲むので、右手写真の様にサンゴ礁の上に島が乗っているように見える。サンゴの卵は、受精後幼生となり海を漂い、生育環境にあった浅瀬に出会い、成長し沖へ沖へと広がってゆく。

2.アマンユー、アジユー、ナハユー、ヤマトユー 〜島の歴史散歩

 喜界島では縄文前期末(約6千年前)の赤連遺跡や後期の中里貝塚等といった多くの遺跡や貝塚が発見されており、その時代には既に人が住んでいたと考えられています。  古代の南島(九州島から南の島嶼の総称)が日本の歴史に記録として登場するのは616年(推古24年)です。  「日本書紀」に、推古天皇24年3月に掖玖(やく)人3人が帰化、5月に7人、7月に20人、先後合わせて30人、皆を朴井(えのい)に住まわせたが、帰国しないまま死んでしまった、との記述があります。掖玖とは南島のことで、「三国名勝図會」に、「屋久は近きにあり、琉球は遠きにあり。故に其近き島の名を取て、其遠き琉球等までも併て掖玖と呼ぶ」とあります。
 8~9世紀頃までの階級社会以前の村落共同体の時代を奄美世(アマンユー)と称し、その後の13世紀頃までを首長(在地領主)たちが勢力を蓄え階級社会に入ったとされる按司世(アジユー)と称しますが、平安中期以降隼人(はやと)の対策が一段落し遣唐使の派遣経路が変わると南島の重要性が薄れ、824年(天長1年)多禰(たね)の国を大宰府の所管から大隅国に編入したことで、「南島これより通じず」と、日本本土との公の交流は途絶えてしまったと史書は伝えています。
 しかし、日本本土の商人たちとの商業活動は活発で、奄美からはヤコウガイ、赤木(経巻や位記の軸、刃の柄材)等が運ばれていました。
 また、2003年から喜界町により発掘調査されている城久(ぐすく)遺跡群は、9世紀〜10世紀、11世紀後半〜12世紀頃、13〜14世紀頃の大集落跡で北方(九州など)や南方(琉球)の多数の陶磁器などが出土しており往時の交流を示しています。
 朝鮮の正史「李朝実録」世祖8年(1462)の条に、1456年久米島に漂着し琉球滞在中に見聞した事柄として「当時琉球国の東に交戦している二島あり、吾時麻(ごじま)島(大島)は帰順してすでに15余年になり、池蘇(いけそ)島(喜界島)は毎年討伐しても服従しない」。
 また、僧袋中が著した「琉球神道記」にも「(喜界島は)小さい島ながら、堅く持して降参しなかった」という記述からは、ある一定の勢力の存在を伺わせています。 
 喜界町の白水集落に残る勝連屋敷は、15世紀中葉の琉球領内での有力な按司である勝連按司の阿麻和利の配下が、喜界島に進出していた事を今に伝えています。
 1466年3月琉球王国第四王朝第七代尚徳王は、薩摩の勢力が南下しない前に(奄美地域の)最北端に位置する喜界島を確保する必要性、勝連按司の残存勢力の一掃、また、この小さな小島に手を拱くばかりではしめしがつかなくなり、王朝の基盤も揺るがしかねない等より、自ら兵2千余人、兵船50余艘の遠征軍を率い征服しますが、その時の様子を琉球王国の正史「球陽」では「連年兵を発し、屡ばヽ征するも功なし。王怒て曰く、ただに功なきのみにあらず、反って侮辱せらる。吾宜しく親ら軍兵を領し、以て賊乱を平ぐべしと」記しています。
 これを契機に琉球王国の政治体制に編入され、島を五間切(行政区画)に分割し、島出身の地方役人を登用し、間接支配による統治を行いますが、この時代を那覇世(ナハユー)と称します。
 1609年(慶長14)薩摩藩は対明貿易による利潤獲得及び藩財政上の理由による領土拡張を目的に琉球侵攻を行い、琉球、道之島(奄美諸島)を支配下に置くと共に、藩の支配を明確に示すための知行目録を発給し、更に統治方針を明らかにするために1623年(元和9)「鬼界嶋置目条々」で、代官を最高の統治者とする等の島役人の整備、年貢を付加する帳簿である名寄帳を書調え荒地や開墾地を確定、楷船(大型の船)を作ることの禁止等示しました。
 「大島代官記」に、初めて糖業の生産が軌道に乗り始めたことを伺わせるものとして、1695年(元禄8)「喜界島・大島黍検者、是より始まる」と有りますが、1708年(宝永7)では、米だけでの上納(貢米・税を米で納める)が出来ない場合は、砂糖・芭蕉布等での代納とあり、また1723年(享保8)(喜界島は干損地であるため水田の用水の為に)溜池が多く出来れば米の生産拡大を図れる、としており、この時期はまだ米作中心を伺わせます。
 他方黒糖は、@1713〜1777年、黒糖の量を決めて買い入れる方式である第1次定式買入制(買入額を予め定めておいて、その額だけ強制買上げする為、否応なく栽培して差し出さなければならない)が始まり、1745年米で納める税を全て黒糖に換算して黒糖で納めるとの換糖上納制度が実施され黒糖への傾斜が強まります。黒糖製造の利に注目するようになっていきます。
 A1777〜1787年、島民の黒糖私売を禁じ、すべての黒糖を藩へ納め、島民への代価は、日用品などの諸品で渡すという方式の第1次惣買入制(専売制、出来た黒糖は全部差し出させて買い入れる)が行われます。
 B1787〜1830年は黍地増や手入れを怠りなくして、決められた上納砂糖斤数を確保するため第2次定式買入制を導入するが、島民の生活は困窮を増していきました。
 他方、文政末の藩累積借財は500万両に達し、その財政立て直しの柱が黒糖でした。黒糖地獄と称されるC1830〜1872(明治5) 第2次惣買入制では、増産のため黍地面積を決め、強制耕作に駆り立て監視する、島民の必要物資は渡されるのですが島民が手にする品物の値段は、大坂相場の4倍強から鰹節の90倍に及び、藩は黒糖の強制耕作と惣買入に加え、島民にはるかに高い値段で品物を渡すという構造で、例えば1844年からの10年間では149万3177両の純益等と藩は多額の利潤を得ていました。この藩政時代を大和世(ヤマトユー)と称しています。
 喜界島の流人となった村田新八は、1862(文久2)年、梅雨時に雨が降らず、食用となる唐芋は植付けが出来ず飢餓、聞いていたより「難渋」であると手紙に記しています。
 明治維新により、明治4(1871)年7月廃藩置県によって鹿児島県が設置されますが、奄美諸島は交通不便の為、暫くは藩制のまま持ち越されました。
 明治維新により、明治4(1871)年7月廃藩置県によって鹿児島県が設置されますが、奄美諸島は交通不便の為、暫くは藩制のまま持ち越されました。
 明治6年、明治政府は奄美に対しては、税である黒糖(貢糖)は現物のまま納めること、それ以外の黒糖は「内地商人」と自由売買をすることを全国に布達しますが、鹿児島県は商人扱いの売糖に差し障りが生じ商人が窮地に陥るとして、士族救済と旧藩時代の専売制の継続を図るため、大阪相場換算での石代金納(年貢を貨幣で納入)及び残糖である余計糖は島民の日用品での交換とすることを決定し、その実施のため、まず「大島商社」を結成させました。このような商社体制下で、島民は低く評価された黒糖と高い価格の日用品(茶、煙草は大阪相場の4.2倍、米は1.8倍)とで二重の不等価交換と更に流通経費等の負担も強いられます。
 このような商社の実態を見据えながら、これまで被っていた不利益に対し、明治5年の黒糖販売の「余沢金」の内40%が商社のものとなっているのを全額島民に返却、大阪相場の半額にも及ばない島民取得分を60%程度に改善、商社解社、勝手交易等を次々と求めていくことになります。
 念願の自主的糖業に変わっても当初の頃は、国や県に適切な指導や効果的な施策が無かったこと等で、藩政時代の実績を下回っていたため、優良品種の奨励普及、明治45年大島糖業試験場設立等振興のための施策を講じます。
 大正時代初期、耕運機やトラクター等の農業機械は普及しておらず、すべて人間と馬による作業で苦労は並大抵ではなく、更に加えて単位当り収量は少なく、平成元年度と比較すると40%という低調さでした。
 製糖作業は3,4戸程の農家がグループ(サターヤーマグミー)を作り、小さな製糖用の小屋(サターヤー)を構えて共同で営んでいました。大正8年頃、サターヤーが743箇所有り、農家個数は2,552戸であったので、3戸で一つのグループを組織していたことになります。サターヤーの敷地の中央部には、馬を動力とするサトウキビの圧搾機(クンマ)が備え付けられ、大正の末期から昭和の初期にかけて、石油発動機を動力とする最新型の圧搾機が一部導入されるも、まもなく戦時体制へと突入し、元のクンマへ逆戻りました。
 二百数十年の歴史を持つサターヤーも、昭和34年生和(しょうわ)糖業株式会社の進出を契機に次第に姿を消していきます。
 当時は食糧の生産にも力を入れており、大正8年「奄美大島之糖業」によると、換金作物のサトウキビの他に、稲、麦、粟、トウモロコシ、サツマイモ、田芋、大豆等の豆類、それに四季の野菜等を栽培していました。しかし、当時もサトウキビが基幹作物であったことに変わりはなく、全農地の35.3%がサトウキビで占められていました。
 戦争では総戸数3,931戸の内1,910戸が焼失もしくは倒壊、爆死者は119名に及び海軍飛行場があった中里集落は140戸の全世帯が被災しました。
 昭和20年8月終戦、21年2月奄美諸島は本土から行政分離され、米軍政府下に置かれ、本土との航海も全面的に禁止されます。食糧の生産は、昭和25年度「奄美群島要覧」での作付面積は甘藷50%、麦類18%、水稲13%、換金作物のサトウキビ7%と、深刻な飢えをしのぐ為に、食糧の確保が優先されていることが伺えます。
 このような中、昭和28年12月奄美群島は日本に復帰し、町村合併促進法の適用に伴い、昭和31年9月喜界町と早町村が合併、喜界町が誕生します。
 「本土に比較して著しく立ち遅れていた奄美群島が、甚大な戦災を蒙り、引き続き行政分離の悲境にあり、その荒廃が他に例を見ないものがあるのにかんがみ」昭和29年に奄美群島復興特別措置法を制定しますが、生活水準は概ね戦前(昭和9〜11年)の本土並みに引き上げる、でした。昭和39年制定の奄美群島振興特別措置法では、おおむね鹿児島本土の水準に近づけることと、糖業、畜産業等の振興事業を行うことが明確になります。
 また、米は生産過剰ではなかったのですが、減反政策の推進に伴いサトウキビへの転作が奨励され、徐々に姿を消していくことになります。
 昭和49年制定の奄美群島振興開発特別措置法では、地理的自然的な地域の特性に即した振興開発を図る旨定め、一部改定を繰り返しながら今日まで続いています。
 現在の耕地面積は島の約40%にあたる2,250ha(第58次鹿児島県農林水産統計年報)で、昭和40年の町営圃場整備事業以降区画整理を中心に土地基盤整備の取り組みが始まり区画整備率は85%を超える水準に達しています。

3.安定した水の供給へ

 過去は湧水を利用したり、湧水に恵まれない集落では井戸を掘ったり、雨水を溜めるなど水を確保することが大変で、飲料水にも恵まれない乏水性の島でした。
 写真は、水を汲み出す為に泉まで降りていく横穴式の斜面泉(ウリガー)で、真っ直ぐの縦堀が出来なかった時代の、横から段々と掘り下げる方式の井戸です。
 自然の雨に依存する、いわゆる水無し農業でしたが、メロン、菊など園芸作物への取組みが顕著になる中、昭和62年からは、ため池、湧水、井戸を水源として島内に29ヶ所の簡易なコイン式取水施設が設置されるようになります。しかし、農家の人は、トラックに500Lのポリタンクを乗せ、水を何度も輸送し、園芸作物へのかん水やサトウキビなどへの薬剤散布等を行いましたが、このように営農用水の確保にはまだまだ多大な労力を費やしていました。
 (地下ダムの完成後、受益地内に有る取水施設の内10ヶ所は使用停止となっています) 。
 度々襲う干ばつや地表水に乏しい立地条件など恒常的な水不足の解消〜安定した農業用水の確保と農業経営へ向け、昭和49〜51年度に掛けて農林水産省により「農業用地下水調査・地域開発調査喜界地区」として、農業用水としての地下水の調査が始まります。
 昭和54年度からは地形的、地質的に水源を地表ダムに依存出来ない不利な条件を有する喜界島、沖永良部、与論島で、地下ダム開発へ向けた地下水の貯留調査、水文解析やダム概略設計を実施し、その結果喜界町湾頭原(わんとうばる)地区が技術的、経済的に最適として、昭和61年からはどの工法が有利かの試験施工等を行い、平成元年〜2年度に地区調査(技術的、経済的な妥当性を検証して事業計画(案)を策定するための調査)、平成3年度に全体実施設計(工事計画に係る設計を行い事業費を算定)に着手し、平成4年12月国営喜界農業水利事業所が開設され、翌平成5年10月念願の喜界地下ダム工事に着手し、畑地かんがい施設の整備に伴い平成23年全ての受益地への送水が可能となっています。
 また、調査を行っていた昭和56年も干天が39日間続き、サトウキビの収穫が大幅に落ち込みました。
 事業が本格化した平成9年1月には、地元の農業関係団体、町、県、喜界農業水利事業所が参加して、地下ダムの水を効率的に活用した生産性の高い畑作営農を確立することで「農業立島」喜界島の基盤を確かなものにすることを目的として「畑地かんがい営農推進協議会」が設立され、活動を続けています。

4.地下への貯留〜その環境との調和

 琉球石灰岩は、堅い骨格でありながらもスポンジのような隙間を有しており、水を通しやすいこの層は豊富な帯水層ともなり、天然の地下の貯水槽の可能性を秘めています。 不透水性の島尻層の上に多孔質で透水性の琉球石灰岩層が存在するため、降雨は速やかに地下に浸透し、時を経て段丘崖や海岸沿いの汀線に湧水となって流出しています。
 地下ダムは、地下を流動する水を地中に壁(止水壁)を築き堰上げ、地中の琉球石灰岩の間隙に水を貯え、それを揚水して圃場へ配水するものです。
 そのため@土地の水没がなく地表は従来通り利用でき、A地下に造られるため薄い堤体であっても水圧に耐えて自立可能で、B万一、地震等で止水壁にヒビが入ったとしても、地下にあるために生命の危険を伴うような災害の心配もありません。
 地下ダムの止水壁の一部が築かれる「水天宮」一帯は、砂丘防風林としての役目の他、喜界町の保護蝶に指定されているオオゴマダラの生息地でした。この地を保全するため、この区間366mはトンネル内から止水壁を造るという特殊工法を採用しています。現在、トンネル内の壁に設置された小窓からは間隙を満たす地下水を見学することが出来ます。
 畑かん営農が展望される中、「地下水は島の財産」の観点から、施肥体系を見直し、肥料成分がゆっくりと溶け、無駄になる部分が少ない緩効性肥料の普及を通して、地下水にも出来るだけ負荷を掛けない島ぐるみでの環境保全に取り組んでいます。
 畑かん営農を着実に進める為には、農家の場合、特に共同経営者である女性の理解と行動力が不可欠と考え、新たな交流機会の創出も目的に、「明日を担う女性の集い」を開催し、これらの活動は現在も進行中です。
 また、一人でも多くの農業後継者が育って欲しいとの願いも込めて小・中・高校への事業所全職員による出前授業の活動も成されていました。
 このような活動により、「農業農村における地域連携活動―地域に密着した喜界農業水利事業―」として農業農村工学会より平成16年第34回上野賞を地元団体、喜界農業水利事業所連名で受賞しています。

5.事業概要

(1) 事業工期
 平成4年度〜平成15年度(当初事業計画と同じ)
(2) 受益市町村
 鹿児島県大島郡喜界町
(3) 受益面積
 1,677ha(当初事業計画より53ha増加)
(4)主要工事
 喜界地下ダム:止水壁 L=2,280m
 取水施設:集水井8箇所、揚水機等一式
 付帯施設:浸透池等
 送水路・幹線水路・支線水路(パイプライン):L=45km
 揚水機場(ポンプ場):4箇所
 ファームポンド6箇所、加圧機場1箇所

サトウキビへの散水
マイクロスプリンクラーによる 菊への散水

【引用・参考文献】
・喜界町誌編纂委員会(2000):『喜界町誌』.喜界町
・漆原和子、羽田麻美(2003.10.31):『屋敷囲いとしての石垣を作る文化−喜界島、 阿伝集落の例−』
・九州農政局喜界農業水利事業所(2003):『国営喜界土地改良事業 事業誌』 『国営喜界土地改良事業 事業誌(技術資料編)』
・九州農政局ホームページ、喜界町役場ホームページ、喜界土地改良区
【表題説明】:「あちゃや はれ」
喜界島の方言で「あしたは いいてんきだよ」の意。
国営喜界土地改良事業完工記念として、地元の方の想いや絵画も掲載した小冊子(2003.11.7)にも使用された言葉で、農業立島を標榜する喜界島の明るい将来に願いを込めています。

完完工記念カレンダー:阿伝集落からの朝日