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戦後の国営事業






 

 

 


1. 曽於地域の自然条件

(1)シラス台地の成り立ち

 曽於地域は、鹿児島県本土の大隅半島北部に位置する広大な区域で、その北端は霧島山系に接し、北部は宮崎県と境界を分け合い、南は太平洋に向け湾口を開く約870km2で、耕地面積は約13,500haと県全体の17%にもなっている農業地域で す。

火砕流の分布状況
 この地域の地質は大陸から流れ込んだ土砂の層が、 太平洋(フィリピン)プレートの活動で押し上げられ、 陸地化した砂岩と頁岩の互層をなす四万十累層群が基 盤となっています。この四万十累層群が約2200万 年〜1200万年前に大陸と海洋プレートがぶつかり 合う造山活動により、褶曲や断層を生じながら上昇し 曽於の山々を形作っています。
 約3万年前に、四万十累層群の基盤岩上に、鹿児島 県を南北に縦断する霧島火山脈の鹿児島湾最奥部の姶 良カルデラで大きな噴火が起こり、南九州地域の台地 をつくる火砕流堆積物の大部分が、この時の噴火によ って噴出したもので入戸火砕流と呼ばれ、その火砕流堆積物がつくる台地をシラス台地と呼んでいます。実際にはこの時の噴火で、しかも1週間程度で一気に堆積したものが現在のシラス台地です。
 シラス台地の内部構造は、ほぼ全体がシラスで、その下層は溶結凝灰岩からなって います。シラス台地上に降った雨は速やかに地中に浸透するため、台地上には川や湖 沼などの水源は殆どありません。一方、シラス台地の谷底部には豊富な湧水があり、湧水に恵まれた河川沿いの低地では、弥生時代から水田として利用されてきましたが、シラス台地上は昔から、水に不自由な土地ゆえシラス砂漠などと呼ばれるほど、極めて生産性の低い土地でした。中世に至るまで原野や雑木林などの未開拓地が広く残り、梅雨時や台風時の豪雨や大風により表土とともに、作物が茎ごと流されるといった悪循環も重なり、不毛の地として開発が一向に進みませんでした。

(2)南九州の風土

 稲作農耕の文化の開始と鉄器を使う弥生文化は九州全域に及んでいたものの、北部九州を除いた僻遠地域、特に南九州においては、狩猟・漁労・採集経済の段階に依然としてとどまり、この南九州では縄文文化の要素が長く残っていたと思われます。
 さらに、この南九州を中心に宮崎県南部や熊本県人吉盆地には、火山活動によって形成されたシラス台地が発達して、生産活動には不適な地域です。稲作農耕が生産活動の主な手段となる弥生時代以降、人々は稲作の可能な平地を求めて、海岸線沿いに南下し、或いは河川を遡って行ったことと思われます。しかしながら、その痕跡には九州山地の北側の平野部と較べても余りにも貧弱なものでした。
 この生産力の違いが、弥生時代以降、九州山地の北側と南側のシラス台地では政治・経済・社会・文化の各方面にわたって大きな格差を生んだ原因でもありました。さらにシラス台地という劣悪な条件によって、この地域の人々の集落は比較的水の得やすい台地末端部の傾斜地か、台地崖下の等高線に沿って孤立分散して居住せざるを得ませんでした。シラス台地に生きる人々は、水に不自由するが、その崖下には豊富な湧水があります。先人たちはこの土地に努力と工夫によってシラス文化の足跡を残してきました。
 そして、日向、薩摩、大隅のそれぞれの地域の中でさらに小さな孤立した閉鎖的な社会を生み、原始共同体的段階に止まらざるを得なかったものと思われます。  これがこの地域を政治的に統合する政治権力を生み出すことが出来なかった原因であり、それぞれの独自の文化を形成した要因でもある。この地域で原始共同体社会の段階にとどまっていた人々を中央の人々が奇異に感じ、熊襲或いは隼人と呼んだのも頷けます。
 彼等(熊襲・隼人)は他の地域から移住してきた異民族ではなく、旧石器時代・縄文時代からこの地域に住んでいた人々の子孫であったと思われます。

(3)「馬なら日向の駒」

 資料によると、かつて、推古天皇が「馬ならば日向の駒」と詠んだのは西暦612年でした。大隅国と薩摩国が未だ日向国に含まれていた時期であり、当地域のことを指しているとも考えられます。
 焼塩土器(塩の精製で使用する器)に「牧」銘の入った器が出土する遺跡が圧倒的に大隅国に多いのは、「原(台地)」を利用した牧の存在を示していると思われます。
 馬や牛は畜力を利用した運搬や農耕の他に、当時馬牛皮の献上や「隼人の楯」の馬の鬣(たてがみ)の利用も見られることから、余すことなく生かされたと考えられます。

都井岬の野生馬
 また、この地域ではごく最近まで仏教的な理由から労役に使う牛や馬は食べてはいけないという習慣がありました。鶏と豚に関しては「歩く野菜」と言われ、自家飼いをし、祝事や行事の際は気軽に潰して食べていました。鹿児島県は全国でも有数の畜産地帯であり、中でもこの地域は特に優秀な和牛生産頭数を誇っている産地で、各種畜産共進会においても毎年優秀な成績を収めています。
 この地域がシラスなどの特殊土壌を背景に古から肉 用牛等畜産を主軸に、サツマイモや野菜など多作目が 組み合わされて展開されてきたことは頷けます。

2.曽於地域の水土整備の歴史

(1)シラス台地開発のはじまり

 曽於地域は、今では大規模畑作を基幹とする農業地域で、九州における重要な食糧供給基地として生まれ変わりつつありますが、シラス台地が開発され始めたのが、江戸中期以降でありました。
 江戸時代の初め、曽於地域を含めた大隅半島は、低地、台地ともに未開拓地で、原野、雑木林などが広く残り、低地は河川の氾濫原であり、特にシラス台地は火山性の特殊土壌で水持ちが悪いうえ、稲作栽培の可能な谷地田との標高差が大きく、地下水が非常に深いため、台地上で水を得ることは難しく、その不便さ故に広大な面積が残されれることになりました。

現存する志布志市(旧松山町)麓集落
 また、この時代藩政の中心は薩摩半島であり、大隅半島では人口も少なく土地利用も粗放的でありました。シラス台地の開発のため、薩摩藩では農民の集団移転を強行し、移住の自由や他の職業に就くことを禁じていました。それが近世の薩摩藩における外城制度・門割制度という独特の軍事・行政を行う仕組みを作り上げたものでした。
 外城制度は鹿児島城下の他に113の外城(この地域では末吉郷、松山郷、志布志郷)を設け、武士を土着させ、地頭がこれを統括して、軍事行政を行う制度でありました。
 麓に住む武士(郷士)は、平時は農 耕によって自活、有事の際には、地頭 の指揮下に動員される仕組みになって いました。
 門割制度は、農村での生産の確保と 年貢徴収のために作られた土地制度で あって、農家の数戸を門に編成し、耕 地が割り当てられ、一定の年期ごとに 割替えが行われていました。
 藩の記録では江戸時代から明治までに212回の台風、大干ばつ12回、桜島・霧島の噴火17回もあり、江戸時代初頭には、多くの死者が出て、災害は農地の荒廃も招いていました。火山に囲まれ、台風常習地帯としての環境の中で田畑を維持し、耕地面積を増やしていくことは、この地域の人々にとって重要なことであったと考えられます。
 シラス台地には大小河川による活発な浸食活動により浸食谷が樹枝状に走り、台地の崖下をなす河川沿いの僅かな水田で稲作を栽培し、農家は作った米の殆どを年貢米として納め、その生活の糧の殆どをシラス台地上で生産するしかなかったと思われます。
 シラス台地は条件不利地にあり、災害常習地帯のハンディーを克服することは大変でした。

(2)サツマイモ伝来

 中南米生まれのサツマイモはフィリピンから中国を経て、そして琉球を経由して日本へ伝わってきました。サツマイモがその後、薩摩に定着するのは琉球への伝来から100年も後のことになりました。このサツマイモが薩摩で広く普及するようになるのは宝永2年(1705)南薩摩の頴娃郡大山村(現指宿市開聞町大山)の漁師利右衛門が琉球からサツマイモを持ち帰ってからのことでした。利右衛門のサツマイモは薩摩半島からここ大隅半島まで広く普及し各地へ目覚ましい勢いで広がっていきました。

曽於市の田の神さぁー

 江戸時代、サツマイモは農民の食料の5割を占めていたとも言われています。そのころ農民の作った米は年貢米として納めるため、自らの食料を確保するのが困難な時代に、この地域も含め薩摩藩では八公二民と言われ、8割もの高率の年貢にも関わらずサツマイモのお陰で飢えは少なかったものと思われます。そのため、この地域では「からいもでんありゃテゲテゲ暮らしが出来る」(サツマイモさえあればどうにか暮らしが出来る)という、諦めが定着し、低生産農業に甘んじてきた歴史があります。
 南九州には、ある時は道端の草むらに、ある時は水田 のあぜ道にひっそりと佇んでいる田の神さぁ(たのかん さぁー)と呼ばれる農耕神の石像が数多く残っています。 その像容は素朴で愛くるしい表情を見ると、あくなき圧 制下に喘いだ農民の姿は、単なる表面だけといった、そ の強かさには先人たちの生き様が伝わってくるようです。
 また、ここで特筆すべきは、サツマイモの普及と伴に、 この地域では薩摩藩の門割制度により、農民は土地を所 有出来ず数年に一度、土地の割り替えを強要されていま したが、開発の進まないシラス台地に限り、藩の許可に より私有地を認めました。そのため、地域の資産家や郷士、農民が次々に願い出て、この頃から畑の面積が水田の面積を上回るようになりました。

当時の志布志港

 江戸中期以降、第二次大戦の終わり頃まで、シラス台地の畑では主に作付けされていたのは、サツマイモ、大豆、菜種(水油)でした。
 大豆は、自己の養分として成長、 成熟するため養分のないシラス台地 でも適しており、生活必需品として 欠かすことのできない、味噌、醤油 の原料として経済的価値も高く、本 地域でも多く栽培されていました。
 サツマイモや大豆は、シラス台地 のような無機質の痩せた土地でも栽 培出来るのに比べ、菜種は自然のま まではシラス台地に不適とされてい ます。
 当時、志布志港では山だて、海だて(骨粉肥料)、「山だて」は牛馬骨、「海だて」は鯨骨のことで、火山灰土壌の畑地では直ぐに地中に浸透してしまい、作物に吸収されないので、徐々に分解する骨粉は、シラス台地に適した肥料として生産性を高めていきました。

(3)みなと志布志の歴史

 みなと志布志の歴史は古く、国内はもとより、中国、琉球と南方交易の便船が盛んに出入りし、幕末藩政まで海外交易の主要地として「志布志千軒の町」の名を国内に響かせていました。江戸時代の廻船業者であった後藤家に残る航海日記には、大坂で「山だて肥やし2000貫」(7500kg)、土佐浦戸港での「海だて20貫物1100俵」の積み荷を確認できます。
 ここで注目すべきは、全国長者番付に名を連ねた薩摩の海商の富と港町の繁栄は近代になって消滅したのは、その大部分が藩の専売統制下に築かれたもので、海商たちの富は領内の農村の商品経済の発展の結果をもたらされたものではなかったのです。
 いわば海洋冒険資本、根なし草の財産であり、束の間の夢と消えました。このような状況の中、みなと志布志では、積み荷として菜種「1570叺(かます=約50kg)」が積み出され、次第に菜種油は食用、灯用など、特産品として生産が増加されていきました。

  現在の志布志港と長距離フェリー

 現在の志布志港は「東京・志布志・名瀬・那覇」「大阪・志布志」の長距離フェリーの港町で知られ、南九州の海の玄関口となっています。
 また、志布志港は「国際バルク戦略港湾」に指定され、トウモロコシの輸入量は国内第2位の地位を占め、国内有数の畜産地帯である南九州地域向けの輸入飼料で、鹿児島の黒豚、黒毛和牛、ブロイラー、そして宮崎牛やブロイラーなどの飼料の多くはここから供給されて、今や国内有数の飼料供給拠点となっています。このようにみなと志布志は昔から航路ネットワークを利用した地場産業の発達によって育まれてきた港町なのです。

(4)シラス台地の開発

 シラス台地は梅雨末期や台風時期の豪雨によってたびたび崩壊し、大きな災害をもたらしてきました。今も桜島は活発な火山活動中で降灰は日常茶飯事です。
 この地域は約3万年前の巨大噴火による影響から未だに逃れていないことを示しています。
 曽於地域で実施された土地改良事業は、明治以降から第2次大戦までに記念碑等が残っているものだけでも23地区を数えています。大淀川河川改修事業の実施による湿田改良を目的とした開墾や安楽川沿いの水田開発を中心に進められた地区や、シラス台地上でも山林・原野を切り開き開墾した畑地の造成が拡大されたものです。第2次大戦後は全国と同様、食糧増産のための緊急開拓事業が開始され、この地域でも民間引揚者や復員兵などによる開拓団が入植し開墾しました。曽於地域でも18箇所で開拓が行われました。また、枕崎台風など大型台風の再三の来襲によって災害復旧事業に追われる一方、加えてシラス対策(農地保全)事業が開始されました。

 開田後の大野原地区

 当時の開墾事業で主なものは、この地域の中央部に位置する旧志布志町(現志布志市)と旧松山町(現志布志市)にまたがる大野原 台地には、明治時代に先覚者数人が測量し、水田開発が出来るということが分かりました。
 それ以来、人々は大野原は田んぼになると言 い聞かされ、また語り継がれてきました。
 その後、大正時代に入り用水路の測量や実施計画が行われたものの途中で挫折。昭和初期になって土建業者の手によって、幹線用水路工事に着工したものの、途中で政府の施策変更のため、工事は中止することとなりました。
 幾多の先人が夢とし、特にシラス台地上の開田については死力を尽くしましたが、ついにその目的を果たし得なかったのです。

安楽川上流の渓谷 花房峡

 終戦後、たまたま食糧事情の悪い時代に、食糧政策と入植政策の史上稀なる恩恵を受け、昭和26年に着工された大野原開田事業は17年の長い歳月を費やして、豊なる美田111ha、畑地147haが昭和42年度に完成しました。シラス台地を浸食する安楽川の流れは、上流部から深い渓谷となっており、水源は宮崎県境に近い、旧末吉町(現曽於市)の大野原堰まで求めざるを得ませんでした。

当時の用水路の工事状況

 このように地形的制約により、大野原堰からの用水路の大部分が止水性の乏しい、シラスや溶結凝灰岩を掘り進め、トンネル工事は6kmにもおよび、固い岩を人力でくり抜き、トロッコで土や石を運び出し、コンクリートはスコップを使った手練りでした。開田作業は竹製のモッコやリヤカーで土を運び、人力による作業で完成しました。先人たちの苦労が見えてくるようです。

当時の開田造成工事状況

 その後、時代の流れと共に集団化や大型農業機械の導入などから、これまでのほ場面積10aから30aへの区画整理や用水路の老朽化に伴うパイプライン化を実施しました。整備されたほ場では、米、施設野菜、路地野菜、飼料作物、たばこ、茶などが栽培されていて、特に米については、低農薬や無農薬の有機栽培が行われ、かって原野や雑木林であったシラス台地を豊かに潤し続けています。

3. 国営曽於東部農業水利事業

(1)事業の背景

 曽於東部農業水利事業は、昭和59年11月に着手し、平成18年度に完成しました。
 本地域は事業前から、広大な畑地がありながらも姶良、霧島、桜島火山から噴出した火山性土壌の黒ボクやシラス・ボラ等の特殊土壌に広く覆われているため、梅雨、台風時の集中豪雨による風水害や、夏期及び冬期の干害等、自然の猛威にさらされて畑地の利用率が大きく制約されてきました。さらに大消費地市場から遠く、交通条件の悪いことも重なり、古くからサツマイモ、麦類、菜種などの収益性の低い天水依存の粗放的な農業が営まれていました。
 また、本地域は温暖多雨の恵まれた気象条件下にも関わらず、すべて無効放流となり豪雨による災害は受けても、その水を利用することは河川沿いの細長い谷底低地の水田地帯に限られていました。

当時の農作業状況 (耕運機)
 この地域にため池が少ないのは、活発な火山活動により噴出した大量のシラスや溶結凝灰岩がほぼ全域に厚さ10数メートルも堆積し、ため池やダムの築造が地質的に困難でした。
 さらにシラス台地の畑にかんがいした場合、保水力が乏しいため、容量の大きいダムが必要となり、シラスなどの特殊土壌地帯での土地改良事業を経済的・合理的に行うには水資源の開発を主体とした「国営直轄事業による大規模畑かん事業」の創設が必要となり、且つ他事業との連携も併せて総合的に実施することが求められることとなりました。

(2)事業の経緯

 このため、昭和26年農林省(現農林水産省)は、南九州の畑作振興を図るために、熊毛、大隅、宮崎南部を含めた南九州総合開発特定地域に指定され、南九州広域にわたる具体的な開発基本構想がなかったことから、昭和44年前後に「特殊農地保全事業」、「南九州畑作営農改善資金」の創設とともに新全国総合開発計画において南九州が大規模畑地振興地域としての位置づけがなされ開発構想調査が進められることとなりました。さらに、この時期の昭和39年〜昭和43年の干ばつ被害、特に昭和42年の記録的干ばつが畑地かんがいを主体とした国営事業発足の大きな契機となりました。また、笠野原地区による畑地かんがいの実証もあり、地元では国営事業実現に向けた促進協議会等を発足させて国への要請を行いました。
 地元の要請を受けた農林省は昭和49年に直轄調査を開始し、昭和53年、これまで悲願であった「国営畑地帯水源整備事業」が創設され、事業促進にも弾みがつき、昭和56年からの全体実施設計を経て事業に着手しました。
 事業では大淀川の源流に近い中岳にダムを築造するとともに、間接流域からの取水施設として、地区内に必要な用水の約9割を担う安楽川の高岡口に頭首工を新設して新規水源を確保し、高岡揚水機場と中継地点の石之脇揚水機場によって中岳ダムに安定的に貯水し新規の農業用水を開発し、この用水を受益地に導くための導水路、用水路、ファームポンドが新設されました。
 また、併せて関連事業で進められる区画整理や末端の畑地かんがいの整備も行われました。なお、ほ場の面整備(区画整理)は、国営事業着手時点で特殊農地保全事業等により受益面積の7割の整備が既に完了していました。
 「国営畑地帯水源整備事業」の制度適用の第1号が「現在実施中の大野川上流地区」と「東伯地区」で、第2号が当地区の曽於東部地区です。曽於東部土地改良事業の凄さというのは第1に地元熱意の強さ。第2に国の技術力向上。第3にバブル前の公共事業優先の動き。この3条件がうまくかみ合った結果です。
本地域の畑は耕作するには条件不利であり、水田地帯と異なり土地改良区はありません、何百年の歴史の中で水理組織が出来て、水の必要性が十分わかっている農民は居ませんでした。天水しかない状況下(防災営農)で国営による事業を興そうとする努力は大変なものでありました。
当時、県内の大規模畑地かんがい地区としては、笠野原、出水平野、南薩地区で当地区が始まった時は既に完了しておりました。

大型散水機による散水状況
(サツマイモ)

(3)営農の変化

 曽於地域での畑地かんがいの整備は大きく立ち後れておりました。こうした中で曽於東部地区は曽於地域の第1号として、同地域のパイロット的役割を持つことになりました。
 また当地区の受益地内の尾野見地区は特殊農地保全整備事業で畑地かんがいが実施され施設園芸の産地化が進み、モデルほ場の役割を十分担うこととなりました。
 尾野見地区の畑地かんがいの営農の発展を見ると、1970年から75年にかけて、冬の基幹作物の菜種、麦類、夏の基幹作物の甘藷が外国産食用油・麦類コンスターチの自由化の影響で収益性の相対的低下を来たした中で、特殊農地保全事業による区画整理と畑地かんがいをいち早く導入し農業部門内の充実を進め、それまでの「甘藷+菜種+肉用牛」の営農タイプから「施設園芸+甘藷+肉用牛」の営農タイプに大きく変化しており、とりわけ水利用を必要とする施設園芸は大きな伸びを示し、これを中心とした営農が展開されるようになりました。

 施設園芸として順調に栽培面積を伸ばしているメロンは、松山町の基幹作物として確固たる地位を占め、鹿児島ブランドとなっています。
 しかしながら、国営事業所発足当時の農業を取り巻く環境は当地区に最も関係する「でんぷん」(原料用サツマイモ)をはじめ農産物の自由化の波、高齢化、担い手不足、国民のニーズの多様化等非常に厳しいものがありました。一方、国営事業についても、国の財政事情の影響から特に一般型予算地区にとって事業の進捗が遅れ気味となり、思い描いた早期効果発現など地元の要望にも十分応えられない状況でした。そのため、農家負担の軽減や早期効果発現の観点から出された施策等を基に国営事業所では、国営事業の完了が21世紀にかかることから「SOO21未来農業戦略」というキャッチフレーズにして、一歩先をにらんだ農業の展開を学識経験者、県、町、農協なども交えた「曽於東部農業水利事業畑地かんがい農業推進計画検討委員会」を設置して検討を進め、昭和62年「曽於東部畑地かんがい営農推進協議会」も設立し、より具体的な営農推進体制も整備するなど、関係団体が一体となった活動が行われました。

 この地域の畑地かんがい営農の将来像を目指した内容については、大きく分けて、施設計画と営農対策の2本柱からなっており、施設計画については、事業費の抑制・早期部分効果の発現・末端整備水準・維持管理コストの軽減・多目的利用等がありました。また、営農対策については、自立出来る農業・規模拡大と担い手の育成・先進技術の活用・戦略作物の検討、さらには志布志湾など物流基地を踏まえた流通体制等がテーマとなりました。これにより、施設整備の効果と営農効果が密接につながり、お互いに相乗効果を発揮出来ることを目的として事業を進めた結果、事業実施後は、露地野菜を中心とした畑かん営農が確立し、だいこん、にんじん、キャベツ、ごぼう、さといもなど作付面積が順調に伸びたほか、茶の栽培も盛んに行われ、一方、施設園芸ではメロンやイチゴ、ピーマン、ゴーヤなど、水利用効果の高い多種多様な作物が栽培され、さらに、これまで桜島の火山活動に伴う降灰等による農作物被害に苦しんできた地域農業に夢を与える、茶や野菜の洗浄施設やハウスの被覆材の取り替えなど被害防止と軽減を目的とした活動火山周辺地域防災営農対策事業が創設されるなど、災害に強い農業が展開されています。
 曽於東部地区では、畑かん施設の整備が進み、ほとんどの畑で水が利用出来るようになっています。これからは、畑かんを活用して地域の栽培作物の収量増と品質向上を進め、農家経営の向上と曽於地域の農業の発展を推進する段階となっています。そこで、曽於地域全体の営農対策を統括する曽於地域畑地かんがい営農推進本部では、畑かんを活用して営農を実践・確立されている農業者を「畑かんマスター」として委嘱して、地域の皆さんに畑かんの利用法や水利用効果等を助言出来る制度を整えています。
 畑作地域において、農業用用水が確保され利用出来ることは、農業生産性の向上はもとより、干ばつや桜島降灰対策などの防災営農につながるなど、地域農業を飛躍的に発展させることができます。

(4)事業概要

@事業工期
 昭和59年度〜平成18年度
A受益市町村
 鹿児島県曽於市(旧末吉町)
 鹿児島県志布志市(旧志布志町、旧松山町)
B受益面積
 3,130ha
 曽於市  旧末吉町  1,000ha
 志布志市 旧志布志町 1,050ha
      旧松山町  1,080ha
C主要工事
 中岳ダム   :有効貯水量4,250千m3
 高岡頭首工  :最大取水量0.5m3/s揚水機場:2ヶ所
 導水路    :総延長5.9km
 幹・支線水路     :総延長92.4km
 調整池    :1 ヶ所
 ファームポンド :8ヶ所

中岳ダムの貯水状況

【引用・参考文献】

 ・鹿児島環境学 T (鹿児島大学鹿児島環境学研究会編)
 ・NHKかごしま歴史散歩 (原口 泉著)
 ・隼人の考古学 (上村 俊雄著)
 ・遺跡が語る鹿児島の歴史 (鹿児島県埋蔵文化センター)
 ・鹿児島の本格焼酎(鹿児島県本格焼酎技術研究会)
 ・末吉町郷土史 (末吉町教育委員会 1957)
 ・志布志町郷土史 (志布志町教育委員会1997)
 ・松山町郷土史 (松山町教育委員会)
 ・曽於市役所ホームページ
 ・志布志市役所ホームページ
 ・曽於畑かんセンターだより (鹿児島県大隅地域振興局)
 ・九州農政局南部九州土地改良調査管理事務所ホームページ
 ・そおとうぶ:めざせ!豊かな農業:曽於東部地区国営かん排事業誌