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戦後の国営事業






 

 


1.佐賀平野の形成

 佐賀平野は、肥沃な土地と温暖な気候を活かした全国有数の農業地帯です。
 佐賀平野の西には白石平野が、東には広大な筑後平野が広がっています。いずれも干拓という方法で、この地域の独特な地理・自然条件と古来より数多くの人々の力によって形成されて来たものです。
 この平野は、九州一の大河・筑後川の右岸に位置し、南は有明海、北は脊振山地に囲まれた温暖な地域であり、吉野ヶ里遺跡が示すように、古くから稲作農耕を基盤とする国家が栄えたところでもあります。脊振山地は花崗岩からなり、山麓にわずかな扇状地がみられるものの、それ以南は標高5m以下、平均勾配は1/4,000〜1/10,000の極めて平坦な地形となっています。
 これら標高4〜5mの等高線は、古代の海岸線です。地域に流れる筑後川、嘉瀬川、六角川などが運ぶ土砂が有明海に流れ込み、これが最大6mにも及ぶ有明海の干満作用によって再び岸へ送られてきて沈殿形成され、干潟となって成長します。この造陸運動は現在も続いており、筑後川河口付近では1年間に10mの割合で海岸線が延びると言われています。
 こうした二千年以上に及ぶ自然の造陸運動とこれを活かした干拓工事によって、現在の広大な平野が生まれました。地質学的には「海成沖積平野」と呼ばれ、全国的に見ても極めて珍しいものです。土地は肥沃ですが、地域の1/3ほどは平均満潮位以下にあるため、大水に弱く、過去に何度も大水害を受けてきました。

(佐賀平野の地形)
(縦断図)

 一方、この地域は、水害の常襲地でありながら、稲作に必要な水不足に悩まされてきました。脊振山地は山が浅く、充分な集水面積を持たない小河川が多く、河川らしい河川は嘉瀬川のみであり、筑後川から取水することは地形上困難でした。このため、昔から様々な水利が工夫されてきました。
 一つ目は、農地を網の目のように走り、用水、排水、貯留機能を併せ持つクリーク。
 二つ目は、満潮時の逆潮現象によって押し上げられた河川の表流水を取る淡水(あお)取水。
 三つ目は、排水路として大きな役割を果たしてきた江湖(えご)と呼ばれる入り江。
これらを河川水やため池とつなぎ合わせた複雑かつ緻密な水利システムが形成されてきました。
 江戸時代に入り社会が安定すると藩主導による農地の開発が行われるようになり、生産の最大のネックとなっていた用水面での打開を図るため、用水土木といわれる大規模な河川等の改修が進められました。
 明治時代になると、収量の増加や効率化を目指して、区画整理事業が行われるようになりました。その後は、資本主義発展に伴う食料増産対策の一環として、各種の県営土地改良事業の実施、戦後は土地改良法の制定に伴い県営かんがい排水事業、国営嘉瀬川農業水利事業、大規模県営ほ場整備事業及び国営筑後川下流農業水利事業などが行われ、現在の佐賀平野が形成されました。

2.佐賀平野の水土整備の変遷

(1)佐賀平野の干拓の歴史

 約4.7万haという広大な佐賀平野(白石平野を含む)は、そのほとんどが干拓によって形成された大地であると言っても過言ではありません。
 その干拓は、推古天皇の時代(607年〜)から行われ、鎌倉時代の1288年(正応元)には南里・米納津間(現在の佐賀市の南東側)に堤防が築かれたとの記録が残っています。江戸時代になると干拓は急増し、新田開発が盛んに行われ、今も残る「籠(こもり)」、「搦(からみ)」のついた地名は干拓の歴史を物語っています。
 江戸時代には、藩営の干拓も見られますが、この地方の干拓は「村受け」と呼ばれる制度で農民の手によって行われたものであります。したがって、規模は小さく、おおむね5ha以下の干拓地が鱗状に重なって形成されてきました。こうした個人、あるいは民営干拓は明治以降も続けられました。下表は、年代別に造成された干拓地の面積をまとめたもので、佐賀の農民は江戸から昭和まで実に毎年20ha以上の平野を広げてきたことになります。

(表)資 料「佐賀の干拓」(佐賀県)            (単位;ha)

年  代

年  間

干陸面積

年平均増加面積

沖積世 〜 奈良時代

 

30,600

 

平安期 〜 戦国末期

800

6,000

7.5

江戸時代

270

5,928

22.0

明治時代

40

924

23.1

大正時代

15

272

18.1

昭和30年まで

30

730

24.3

昭和50年まで

25

3209

128.4

合 計

 

47,663

 

*@「籠」は竹で編んだ円筒形のかごに土や石を入れ、堤防のように並べて新地をつくるもの。
*A「搦」は「縄が木にからみつく」という意味で、堤防の予定地に丸太の杭を打ち込み、これに木の枝などを絡みつけ、満潮時に運ばれてくる泥がついて堆積するのを待ち、地盤が高くなったときに突き固めて潮留めにしたもの。

(2)この地域独特な水利システムの誕生

 有明海の干満差による造陸運動と干拓の歴史は、佐賀平野に様々な水利の工夫と複雑な水利システムを誕生させました。
 その一つ目が、「江湖(えご)」と呼ばれるもので、干潟のミオ筋が川の形で残ったものです。
 「佐賀江(さがえ)」、「八田江(はったえ)」、「本庄江(ほんじょうえ)」などはそのなごりです。当然のことながら、干潮時には、溜まった川水は干し上がります。これが、佐賀平野の天然の排水路として絶大な役割を果たして来たのです。この中でも「佐賀江」の役割は大きく、位置図ように西から東に流れ、巨瀬(こせ)川、中地江(なかちえ)、城原(じょうばる)川など幾つもの川を集めて筑後川へ流しています。近年までは、佐賀市と筑後川を結ぶ運河として大動脈の役割を果たしていました。

佐賀江、本庄江、八田江の位置図

 さらに、もうひとつの重要な役割がありました。人々はこの川から水田へ大量の水を取り入れていました。前述のように、有明海の干満差は最大で6mを越えます。満潮時、この平野で最も低いところを流れる筑後川の水は、有明海の海面の上昇に押されて、激しく川を逆流します。その速度は、秒速4m以上、感潮区間は筑後川河口から30kmに及ぶと言われます。この逆潮現象によって押し上げられた河川水は、筑後川の本流、支流、そして「江湖」を逆流し、海抜ゼロメートル以下の低平地の上流部まで送り込まれます。
 海水は比重が重く、川の流れの下へ潜るため、上層の水だけを取水すれば水田用水として利用可能となります。地元では、この押し上げられた水のことを「淡水(あお)」と呼んでいます。「佐賀江」は、この「淡水」の主要な取水河川として、その南に位置する広大な水田を潤してきました。
 そして二つ目が、その「淡水」の貯水池として、用水路として、また排水路として機能してきたのが、この地独特の水利施設の「クリーク」(地元では堀と呼ばれる)です。
 クリークは、今でこそ少なくなりましたが、かつてこの地の農村景観は、水路の上に田が浮かんでいるようだとも形容されました。大きな河川といえば嘉瀬川のみで、大河川の筑後川は、平野の底部に位置し河床が低いため、この川から取水することは地形上無理でした。干拓により広大な平野が海に向かって広がって行く中で、水田の水不足と勾配を持たない低湿地の排水をどうするか。クリークは、これらの地形的な矛盾を解決すべく考え出された農民の偉大な遺産とも言うべきものです。

昔のクリークの風景写真

(3)江戸初期における佐賀平野の水土整備

 この佐賀平野には、ある宿命がありました。前述のとおり、脊振山地は山が浅く集水力に乏しい。中小河川はいくつもあるものの、広大な平野を潤すには決定的に水が足りません。唯一、水量が期待される嘉瀬川は、平野の西側を流れ、東側の2/3にあたる平野は十分な取水ができない状態でした。淡水取水が可能な地域は、佐賀江周辺の一部農地に限られていました。クリークもあったが、それも上流から水が来なければ蓄えようがありませんでした。
 さらにもう一つの宿命は、台風の常襲地帯であるのと梅雨時期の集中豪雨も格段に激しいため、この勾配の少ないクリークだらけの手作りの台地に大雨が降り、有明海の満潮時と重なり筑後川の洪水が押し寄せ、何度も大水害の被害を受けてきました。 このように、用水不足と水害という矛盾する現象こそ、この佐賀平野の長年の宿命だったのです。

平成2年7月豪雨による冠水被害状況

成富兵庫(1560〜1634年)の偉業

 江戸時代初期になって佐賀平野の水土整備に大きな変化が起こりました。戦国時代、各地の大名は領国を富ますことが最大の課題でありましたが、肥前鍋島家はこの地を治め続けた数少ない大名でした。この鍋島藩の家老で「成富兵庫茂安(なりどみひょうごしけやす)」という武人の出現が、長年の宿命であつた佐賀平野の特異な水利体系を大きく変化させました。その結果、近年までこの佐賀平野が有する多くの恵みを育んで来たのです。
 成富兵庫の主な業績としては、細かいものまで合わせると100を越えると言われます。利水網の整備開発、ため池や干拓地の造成、治水事業などを手掛け、平野全体で治水、利水、排水を処理するという広大な水利システムの一元化を図りました。このようなハード整備だけでなく、地域内の河川の上流下流、左岸右岸と広域的な調整を図り、村同士の利害の対立や水利紛争を解決し、領民思いの施策を施しながら、厳格な用水統制を敷いてきました。その中でも、代表的な業績として「石井樋(いしいび)」が挙げられます。
 嘉瀬川は、花崗岩山地である北山(ほくさん)の渓谷からおびただしい土砂を搬送しながら天井川をなし、たびたび堤防を決壊させる暴れ川でした。彼は、かつて嘉瀬川の流路であった田布施(たぶせ)川に着目し、土砂を排除した上水のみを城下町まで引いてくる計画を立てました。嘉瀬川の本流に堰(大井手(おおいで))を設け、上流の川幅を広くして水勢を和らげる。さらに兵庫荒籠(あらこ)(石造りの水制)などを配置し流心を導き、土砂を堰の前に沈殿させながら「象の鼻」、「天狗の鼻」といった曲部で流速を落として、上水のみを田布施川に流入させるという巧妙な仕組みを考えました。余水は岸川作水として農地に導いていました。
この「石井樋」は、城下町用水としての役割が第一でありましたが、彼の工法の巧みさが嘉瀬川の流れを安定させ、石井樋以外の十三か所の取水も可能となるなど、後世にいたるまで佐賀平野に限りない恩恵を与えてきました。近代工事によって役割を終える昭和まで、三百三十年以上の間、現役であり続きました。
 江戸期を通じて、佐賀平野に目立った百姓一揆などの記録はなく、これほど干ばつと水害が繰り返される地域で、水争いの記録も少ない。このように、彼の成した業績の最大のものは、水をめぐる社会秩序の形成と言っても過言ではありません。

 

現在改修復元された「象の鼻」、
「天狗の鼻」

昔の石井樋の「絵図」

(4)戦後の大事業「国営嘉瀬川農業水利事業」の始まり

 少ない水を平野全体で薄く広く分け合い、溢れる洪水を平野全体で協力して排除する。こうした自然の営みと社会の営みの接点を操る術は、成富兵庫が活躍した時代を背景として、幾世代にわたって形成され、継承されてきたものと思われます。こうした佐賀農民の努力と気質は、近代の土地改良事業でも生かされることになりました。米の反収(反当たりの収穫量)でいえば、近代的な技術体系を持った明治農法、すなわち、多肥多収性品種の普及、集約栽培法、乾田化と耕地整備事業など土地生産性の向上運動の取り組みにより、明治の半ばから昭和10年代には、200kg台から400kg台に収量を上げて全国一位となりました。佐賀の農業は、「佐賀段階」と呼ばれて全国の農村の指標にもなりました。
 その後、戦時中、農地は一時荒廃することになり、また昭和24年の大水害、昭和26年は梅雨時の集中豪雨や大干ばつ、昭和28年の洪水被害など大きな自然災害を受けました。
 このような中で、戦後の経済復興期を迎え、食糧増産政策をきっかけに、この平野でも「国営嘉瀬川農業水利事業」が実施されることになりました。
 この事業は、鍋島藩時代から整備継承されてきた嘉瀬川を核とした水利について、改良と水利施設の近代化を図るものでした。
 水田面積の拡大による用水不足と稲作栽培の適期の用水確保が課題であったことから、嘉瀬川の上流北山に、有効貯水量2,200万m3の巨大な「北山ダム」(昭和32年完成)を建設し、発電所を設けるとともに、佐賀平野1.1万haの水田にかんがいするものです。併せて、嘉瀬川下流の十四か所の取り入れ口を統合する「川上頭首工」(昭和35年完成)も建設され、国・県営事業により、佐賀市、佐賀郡、小城郡の1市9町にまたがる約90qの近代的水路網が完備されました。これにより、農業経営の安定と合理化が進むことになりました。

北山ダム(昭和32年完成)

 川上頭首工(昭和35年完成)

 一方で、農民は「新佐賀段階」を目指し、稲作の技術改善に乗り出し、研究を重ね、遂に昭和40年反収512s、昭和41年542sという驚異的な収量を上げ、2年連続の日本一の栄誉を獲得するに至りました。これは、この地で古くから培われてきた集落共同体的生産方法を土台とした集団統一栽培が花開いた結果であるとされています。

3.「佐賀中部地区」国営総合農地防災事業

 戦後の経済復興期の食糧増産対策をきっかけに実施された「国営嘉瀬川農業水利事業」(昭和24年度〜48年度)の基幹施設について、施設の機能回復、強化を図ることを目的に、国営新規事業制度の全国第1号の地区として新たに始まった「農地防災事業」です。

(1)事業化の背景

 事業化の背景としては、 第一に、当地域の地盤沈下に伴う水路施設の機能障害が認められたこと、路線によっては水質汚濁による通水障害も重なり施設機能が大きく低下している。
 第二は、用排水兼用水路等において、排水対策上から用水ルートの変更及び通水量調整等を余儀なくされ、結果として用水不足地域が発生している。
 第三は、完了後30〜50年を経過し、施設そのものの機能障害が水路や川上頭首工等の各所に認められ、維持管理上の問題も含め、多くの課題が上げられている。
 第四は、元々から排水条件の不良な地域であり、排水改良対策が実施されてきていましたが、複雑な排水機構と排水慣行が形成されて来ている中で十分な改善策が確立されていなかったことです。
 この地域の基幹用水施設の機能回復を図るためには、用水施設だけでなく、これに関連した排水施設の整備を一体的に実施する必要があることが明確化されました。また、これら機能低下している用排水施設の修復と水管理の効率化を図るうえで、管理設備の充実を図るよう、地元からの強い要望がありました。

(2)事業の経緯

 佐賀平野では、湛水被害、地盤沈下、都市化の進展及び用排水施設の機能低下などの要因で、農業の発展に大きな障害が認められ、何らかの対策が必要でした。そして、昭和57年度から国営調査地区として採択され、計画づくりがスタートしました。
 その際、事業計画にあたっては、経年変化による施設の老朽化以上に、地盤沈下や都市化による農地転用の進行など社会的要因の変化が、大きく農業に影響を及ぼしていたことから、農家の負担が軽減されるような新規の防災事業として制度設計されました。
 その目的内容は、用水施設の通水機能を回復する(農地防災)とともに、排水施設を新設又は改修して排水機能を回復・強化し(農地防災排水)、農地及び農業用施設を災害から守り、土地利用の高度化、農業経営の安定と併せて国土の保全を図るものです。

(3)事業の効果

 この地域の農業は、肥沃な土地と温暖な気候を活かした全国有数の農業地帯です。
 事業完了後の平成24年次の耕地及び作付面積統計資料によりますと、米の裏作である小麦は、作付面積では全国第3位、二条大麦に関しては1位を保ち、大豆については平成16年次5位から3位に上っています。その他にアスパラガス、玉ねぎの収穫量は、いずれも北海道に次いで全国2位となっています。
 さらに、特に注目されるのは、耕地利用率(1年間に作付される率で、200%は1年間に2回作付されたことになります。)の高さです。全国平均92%に対して、佐賀県は132%で日本一です。
 佐賀中部地区(佐賀市と小城市)では、平成16年次166%の高い値を示していました。これまで整備されてきた生産基盤を利して、現在も高い水準を維持しています。

広大な実りの大地「佐賀平野」

二条大麦の収穫状況

 事業完了後4年目を迎え、今日まで維持管理を行っている地元の「佐賀土地改良区」からは、次のような意見が寄せられています。

○用水管理操作について
 川上頭首工は中央管理所の機能を有しており、関連する各関係機関との連絡調整や操作管理業務が増えたものの、施設の遠隔操作などによる適正な水管理によって効率的な配水運用ができるようになってきた。
 複数の分水施設の監視・操作は、頭首工から遠隔操作が可能となり、管理が容易になっている。また、用水は末端まで確実に通水可能となり、用水に関する問題は起きていない。

○排水機能について
 排水機場等の整備による機能強化よって、近年は相当の豪雨があっても大きな湛水被害は生じていない。例えば、城西排水機場は排水能力を10.0m3/sから28.0m3/sに増設したために、設置前の平成2年の豪雨(6日間降水量461mm)と設置後の平成9年の豪雨(6日間降水量441mm)で比較した場合、湛水面積が447haから0haへと劇的に減少した実績が証明されています。

(3)事業概要

 @事業工期
  平成2年度〜平成22年度
 A受益市町村
  佐賀県佐賀市(佐賀市、諸富町、大和町、川副町、東与賀町、久保田町)
   〃 小城市(小城町、三日月町、牛津町、芦刈町)  *( )内は旧市町村名
 B受益面積
  水 田  9,968ha
 C主要工事
  川上頭首工 : 最大取水量 19.01m3/s (フローティングタイプ全可動堰)
  幹線用水路 : 63.7 km (コンクリート三面張)
  排水機場  ; 11 機場 (全排水量 99.1 m3/s )
  排水路   : 14.6 km (コンクリート三面張他)
  排水施設  : 兵庫調整池 (容量 7,000m3
  水管理施設 : 中央管理所、用水・排水施設等の遠方監視制御

【引用・参考文献】
・国営総合農地防災事業佐賀中部地区事業誌(平成23年3月 九州農政局佐賀中部農地防災事業所)
・佐賀中部地区事業概要(平成21年版 九州農政局佐賀中部農地防災事業所)
・肥前佐賀の水土の知 成富兵庫の遺産(平成15年3月 企画:筑後川下流農業水利事務所 制作:全国水土里ネット)
・佐賀地域センター管内概況(平成26年版 九州農政局佐賀地域センター)
・筑後川下流土地改良事業概要書(平成23年版 九州農政局筑後川下流農業水利事務所)