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戦後の国営事業






 

 

 


1. 上場台地の誕生

上場台地(参考文献D)

上場台地は、佐賀県北西部、玄界灘に突き出た東松浦半島の大部分を占める、標高100〜200mの波状形卓上台地で、海岸・松浦川河口平野部の「下場」に対して松浦川とその支流、徳須恵川北西の丘陵部が「上場」と呼ばれています。

この上場台地の誕生はおよそ新世代の第三紀の終わり頃(2700万年前)、地面が裂け、そこから比較的柔らかい玄武岩が噴出、テーブル状に広がりました。その後、隆起などの地殻変動、浸食を繰り返し、現在の小さな浸食谷がいくつも入り込む複雑な地形が形成されたと考えられます。また、台地が落ち込む海岸線は典型的なリアス式海岸でありその複雑な海岸線は七ツ釜など景勝の地となっています。

菜畑遺跡(参考文献E)

唐津市の菜畑遺跡は(下場にある)我が国の農業において大変重要な位置を占めています。この遺跡は縄文時代前期から弥生時代中期にわたる住居跡や水田跡・貝塚などの遺跡ですが、その中の縄文時代晩期の水田跡から多数の炭化した米粒と水草の種子が見つかりました。さらに石包丁・木のクワ・石斧・石ノミなどの農工具も見つかり、これらは水路や畦の遺構ともあわせ、本格的な水稲栽培が行われていたことを証明するものです。このことは言うまでもなく画期的な発見であり、松浦川河域が水稲栽培における日本最古の地であることが明らかになりました。

上場台地には、旧石器時代から縄文時代の遺跡が多数発見されていますが、弥生時代以降の遺跡が極端に少ないことは、農業先進地であるにもかかわらず、背後に広がる広大な大地に水を得られなかったために、次第に歴史の軸からはずれていったものと考えられます。

2. 五百もの溜池が物語る飢饉との戦い

「佐賀県災異誌」によると、県下の干ばつは大化元年(645年)の時代から記録があり、以後ほぼ十年に一回の割合で繰り返えされています。

その度ごとに深刻な被害を受けたのが上場台地でした。河川の発達に乏しく、夏の降雨量が少ないため日照りがちょっとでも続くと、たちまち干ばつとなり収穫皆無という事態におちいるのです。その最たるものが江戸中期の享保の大飢饉(1732年)でした、その干ばつでは牛馬の死も多く、餓死者も佐賀県全体で8万人余に上ったと伝えられています。

度重なる干ばつと飢饉、雨水に頼らざるを得ない上場の農民は、用水確保に向けて江戸から明治、大正、昭和にわたり、血と汗の涙ぐましい努力で溜池づくりに取り組みました。中でも上場台地最大の「上倉万田代溜池」は、おおよそ270年間にわたり役割を果たしてきました。そして現在、国営上場農業水利事業により、上倉ダムに生まれ変わり、肥前町(現唐津市)のほぼ全域に水を供給しています。

ここでは「上倉万田代溜池」に語りつがれる伊惣次の領得について説業水利事業により、上倉ダムに生まれ変わり、肥前町(現唐津市)のほぼ全域に水を供給しています。

ここでは「上倉万田代溜池」に語りつがれる伊惣次の領得について説明します。

            語り継がれる伊惣次の領得
伊惣次は長年切木組上ケ倉村の庄屋を努めて聡明で温情深く村民の人望を一身に集め、彼も村民の生活実態をつぶさに掌握していた。伊惣次は度重なる凶作、そして飢餓を見かねて遂に意を決して総代与次兵衛、名取又助、肝煎親七、同平介など村の有力者を招集して溜池築造の相談を持ちかけた。集まった村役達はかねてから伊惣次から話は聞いていたが、いよいよ本格的な工事着工となると藩の許可、土地の分割、譲渡、工事費用、人夫の動員、用具の調達などさまざまな問題が続出した。藩の許可願にしても今まで何人もの者が役人との交渉で行き詰まり計画の放棄を余儀なくされていた。

幸い、伊惣次は長年庄屋を努めていたことから、藩主土井大炊頭利実をはじめ役人たちの覚えめでたく、庄屋伊惣次の願い出であれば、と思いのほか早く溜池築造の許可を得ることが出来た。
工事に先立ち用地の取得や土地の分譲、人夫の動員、費用の調達などはかねてからの伊惣次の計画通りに進み、享保10年(1725)工事に着手した。
樹木の伐採、岩の破砕、掘削、土砂の運搬など、鎌、鍬,斧、鋸、モッコなどの用具は農民個人のものを持ちよって使用し、作業も初めのうちは皆よく働いたが、工事が長期に及ぶと人々は疲労して、やがては作業上の不平を言い出すものや怠ける者も出て、中には他村へ出ると云う者も出る始末で作業が停滞することもあった。

しかし、温厚にして忍耐強い伊惣次はこれらの苦情、文句にたいして溜池の重要性と将来の効果を説き他村への転出者を説得した。人夫に出た村民のなかにはその日暮らしに困る者もいて、伊惣次は密かに自分の米や味噌、醤油などを分け与え、又作業用具も自ら調達して与えた。このような伊惣次の献身的な熱意に人々は深い感動を覚え、溜池の作業は続けられた。庄屋の温情と彼の強い信念、燃える情熱が村人たちの魂を揺さぶったのである。

やがて工事も半ばを過ぎたある春の日、春雨に濡れて湖底に溜まって行く水をじっと眺めて佇む伊惣次の姿を見た時村人は、「この上場の原野にも水が溜まるのだ」と深い感動を覚え、いよいよ奮起して作業に精励したのである。地元の上ケ倉は勿論近隣の瓜ケ坂、新木場、田野、高串の村々からも応援の人々が繰り出し、工事は加速度的に進んだ。間もなく堤防の形が整い、一雨ごとに水量を増し、やがて水が満々と湛えられた湖面を見た村人たちは、永い苦労を忘れて伊惣次を取り囲み狂喜し歓声をあげたが、その声は嗚咽にかわっていった。

時に享保12年10月であった。名付けて「上倉万田代溜池」という。
この溜池の築造によりその恩恵を受ける水田は当時約12町6反に及び、余水は近隣の瓜ケ坂、新木場の水田にも行き亘った。
藩主、土井大炊頭利実はこの功績を喜び、伊惣次に苗字帯刀の格式を許し「上ケ倉伊惣次」と名乗らせた。

その後上場では、上倉万田代溜池築造に啓発されて瓜ケ坂、新木場、朝月溜、加倉溜、日の出松溜など総数五百もの溜池が次々に築造されました。

日の出松溜は揚水ポンプで下の溜池から最高地の農地まで水を汲み上げ、かけ流しされた後の水は池に戻り再び揚水する循環式であり、上場開発プランの原型のような仕組みであり、貴重な水を最大限に活かす知恵の結晶ともいうべきものなのです。

上場にある五百もの溜池、その一つ一つに悲喜こもごもの歴史があり、水との厳しい闘いの跡を上倉万田代溜池は示す「生き証人」として、今も語りかけています。

築堤当時の朝月溜(参考文献D)

3.事業発足の背景

上場地区は、水田農業中心の佐賀県内にあって特異な畑作地帯であります。台地には浅い浸食谷が複雑に発達しているため、山林、畑、水田が小規模に錯綜し、農業の機械化や経営規模の拡大など、効率的な農業生産を拒んできました。また、本地区はかんがい期の雨量が少なく、地形上河川の発達にも乏しいことから常襲の干ばつ地帯となっており、劣悪な域内道路や玄界灘から吹き付ける強い季節風と共に近代的な農業経営確立の大きな障害となっていました。

(参考文献D)

昭和30年代後半から相次いだ炭鉱閉山後は、生産性の低い一次産業の他は見るべき産業もなく、上場地域は「佐賀県のチベット」と呼ばれていました。これを打開するため、佐賀県は上場地域対策として、各種の総合開発計画を策定し、域内での水源開発を主体とし、仮屋湾の淡水化、地下水開発、ダム開発などの調査を実施しましたが、およそ40百万m3におよぶ不足水量をまかなう用水源を地区内に見出し得ませんでした。昭和42年7月空前の大干ばつが発生し、上場4町での被害額は、当時の金額で6億5千万円を越していました。

この様な大干ばつを契機として、上場台地に水を引くとの熱く激しい農民の声が人々の強いつながりとなり、上場開発がスタートし事業を進干ばつ被害の報道(昭和42年10月12日)めたのであります。

空になった溜池の水を見る農民
(昭和42年7月)(参考文献D)
干ばつ被害による新聞報道
(昭和42年11月20日)(参考文献D)

4.事業発足の経緯

地区内での水源開発に苦慮していた佐賀県は上場地区土地改良事業に当り、地区内での水源開発が進まないことで地区調査申請に慎重でありました。

その頃に、建設省が「松浦川水系工事実施基本計画」を作成し、その中で松浦川の塩分遡上による塩害を防止するために、唐津市鬼塚地点(下場)に松浦川河口堰を設置することを決定し、昭和44年度に着工することになりました。

これを受けて、佐賀県は松浦川からの取水が実現可能と判断して、昭和43年度に上場地区地改良事業地区調査を申請し、国営上場地区直轄調査が開始され、松浦川からの取水協議などが鋭意進められ、昭和48年度国営上場土地改良事業が着工されました。

松浦川からの新規取水については、河口堰が多目的でないことで問題があり、河川協議は難航しましたが、上場地区は豊水水利権として、@不特定 A上流上・工水 B上場農水 C下流上・工水 D域外上水の順により利水計画を行うことで双方確認し、以後九州農政局が主体となって利害関係者との調整を進め、昭和63年度水利権協議が成立し、新しい水源が確保されました。

5.上場台地の今は

上場土地改良事業に着手する以前の、上場農協管内の営農形態は、水稲、麦、露地野菜(馬鈴薯、甘藷、スイカ、ニンニク、白菜等)、露地温州みかん、葉タバコや畜産などの複合経営が主体であり、劣悪な生産基盤であるため生産性は極めて低い状況でありました。

事業実施中の平成6年に西日本一帯を襲った大干ばつは、上場地域においても深刻な影響があり、特に早期米が主流である水稲は、かんがい用水が最も必要な7月下旬から出穂期にかけて、水不足が深刻となりました。これは代掻き田植えでかんがい用水を使い切ってしまい、その後の少雨のために溜池が干上がったからであります。この時国営及び県営事業はすでに完成していた施設をすべて利用し応急的な対策を講じた結果、上場地区の干ばつは、他の地域に比べて軽微なもので済み、逆に水稲は豊作となりました。

事業完了後には

    @ 水稲は、かんがい用水の安定的な確保により、銘柄米「コシヒカリ」が作 付され全て自主流通米として出荷され、早期米としとして消費者の高い評価を受けるようになっています。

    A 畑作は国営事業により畑地面積が大幅に拡大したにもかかわらず、馬鈴薯や甘藷は減少傾向、ニンニクは大幅に減少し、それらと交代して施設イチゴ、メロン、たまねぎ等の園芸作物が導入され、葉タバコの契約栽培も拡大しています。

    B 果樹は、事業前は温州ミカンだけの作付体系でありましたが、ハウスみかんや中晩柑などの多様な柑橘類が栽培され、販売額は飛躍的に伸びています。中でも、甘夏ゼリーは、爽やか甘みと無添加栽培の健康・安全志向がうけて県内のみならず全国レベルで知られるようになりました。

    C 一方畜産では、農地造成により、ソルゴー等の飼料作物が作付され、粗飼料が確保されて牛や豚の飼育頭数が大幅に増加しています。特に肉用牛の飼育頭数は、約6倍の伸びを見せ全国トップクラスの高品質を誇る「佐賀牛」というブランド名で有名になっています。

また、上場農協管内の販売額も事業着手当時から約3倍余となり飛躍的に上昇しています。上場農協は県内32農協の中で、低ランクであったものが第2位の販売額をあげるまでに成長していいます。

現在営農指導は、佐賀県営農センターとJA上場農協が主体となり、研究や営農指導を実施していますが、末端組織として各ファームポンド毎に水管理委員を配置し作付状況・用水管理などを行い地域一体となった取り組みが行われています。

唐ノ川団地の茶畑(参考文献A)
24号ファームポンド(参考文献A)
共同工事の呼子大橋(参考文献B)
甘夏ゼリー(参考文献D)

6.上場農業水利事業の概要

昭和48年度に始められた国営上場土地改良事業は、現唐津市(唐津市、肥前町、鎮西町、呼子町、北波多村)と玄海町にまたがる5,227ha(うち808haが農地造成)を対象に、農業用水の確保を中心とした畑地かんがい、水田への用水補給、経営規模拡大のための農地造成を行い、土地生産性の向上と農業経営の安定合理化を目的として、平成15年度完了までに次のような主要工事を実施しました。

  • 受益面積の内訳 水田1,638ha、畑2,565ha、樹園地1,024ha
  • 受益戸数 4,981戸

    
主要工事

    @ 貯水池

ダム名

堤長(m)

堤高(m)

貯水量(千m3)

後川内ダム

250

46

3,730

赤坂ダム

256

30

1,450

打上ダム

181

36

1,430

上倉ダム

196

19

793

藤ノ平ダム

296

58

3,128

 

    A 揚水機場

    13機場(松浦川用水機場ほか12カ所・揚水量3.0m3/s)

    B 用水路

    幹線用水路 24路線(77,088m)

    C ファームポンド・吐水槽

    FP 29カ所 ・吐水槽 3カ所

    D 農地造成

    地区内で、水田・畑・樹園地と錯綜する山林原野を一体的に開発し、経営規模の拡大を図るため36団地、808haを造成しました。

後川内ダム
藤ノ平ダム
上倉ダム
打上ダム
赤坂ダム
松浦川揚水機場

掲載写真は(参考文献A)

 

上場地区一般計画平面図

 

 

参考文献  @上場農業水利事業 事業誌
      A上場農業水利事業 概要書
      B唐津市農林水産部 写真等
      C上場土地改良区  概要書
      D上場農業水利事業
        水と道、上場台地物語
      E九州農政局
        北部九州土地改良調査管理事務所資料