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壮大な穀倉地帯が意味するもの -耳納山麓農業水利事業-
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人々と共に歩んできた筑後川



 坂東太郎(利根川)、四国三郎(吉野川)と並び称される九州一の大河、筑紫次郎(筑後川※1)。
  その昔この川は、千歳川、千年川、筑間川、御境川、御井川、一夜川などのたくさんの呼び名がありました。命名の多さは、流域の人々と川との関わりの深さを物語っています。
  大河ゆえに筑後平野には計り知れない恵みをもたらしてきました。しかし、いったん荒れ狂うと人為の及ぶところではありません。たちまちにして平野は修羅場と化します。田主丸町の河童伝説など、治水にまつわる逸話も数限りなく生んできました。
  そしてまた、この大河の傍にありながら、わずかな地形のいたずらでほとんど恩恵にあずかれない地域も多くありました。中でも、筑後川の中流域、田主丸町、吉井町、浮羽町など浮羽郡一帯は、とりわけ左岸側は水に苦しんだ土地でした。この地域の人たちに、歴史上で即座に思いつく人物はと訊ねると、大半の人がこう答えるそうです。――― 五人庄屋。
  史実ながら、なかば伝説と化した五人庄屋の物語。この地域の田畑には、荒蕪の地が沃野に転じた喜び、これを築くために命や私財を投げ出した五人庄屋や天の摂理に挑んだ土木技術者達への畏敬、あるいは、モッコや鍬一本で全身泥と化しながら開削した名もなき農民、幾多の犠牲者達への深い感謝といった様々な歴史的情感が今も豊かに息づいています。

※1・・・ 阿蘇外輪山の九重山をその源を発し,筑後・佐賀両平野を流れ有明海に注ぐ九州最大の河川。流域面積2,860km2。河川延長は143km。「筑後川」と呼ばれるようになったのは、寛永13年(1636年)といわれている。


福岡県 ―耳納山麓農業水利事業