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壮大な穀倉地帯が意味するもの -耳納山麓農業水利事業-
九州エリア
戦後の国営事業







五人庄屋



 話は、今から約340年前、江戸時代の初期にさかのぼります。
 吉井町と田主丸町の境にある集落は、わずかながら土地が高く、すぐ目の前を大河(筑後川)が流れているというのに、どうしても水を引いてくることができません。農民達は湿地帯を耕して生きてきたものの、旱魃や水害の被害が絶えず、先祖から受け継いだ土地を手放し、夜逃げする人も出てくるほどでした。
 余談ですが、田主丸という珍しい地名。「楽しく生まる」が由来だとする説がありますが、この周辺には金丸、千代丸、十郎丸と「丸」の付く地名がたくさんあります。一方、九州
一帯には「原(ばる・はる)」が付く地名も多くあります(例えば、田原坂)。「ばる・はる」も「まる」も古代朝鮮語の里(マゥル)、坪(バリ)が訛ったものらしいのですが、日本語の「原」は農業の営めない土地を意味しました。「丸」も台地のような地形の村を意味したのかも知れません(例えば、本丸、二の丸)。
 いずれにせよ、母なる大河を目の前に、この地域の村人はまるで捨て子のような思いをいだいていたのではないでしょうか。
 この頃、この地域の惨憺たる有様に、かねてから心を痛めていた生葉郡(現在の浮羽郡吉井町)に住む五人の庄屋※2は、度々集まっては、「何とか目の前の水をひいてくることは出来ないか」と話し合っていました。

※2・・・ 夏梅村庄屋・栗林次兵衛、清宗村庄屋・本松平右衛門、高田村庄屋・山下助左衛門、今竹村庄屋・重富平左衛門、菅村庄屋・猪山作之丞。(いずれも現浮羽郡吉井町西部)



福岡県 ―耳納山麓農業水利事業