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九州一のカルデラ湖「池田湖」を調整池にするという壮大な計画が南薩地方を不毛の台地を、緑なす肥沃な畑作大地へと変貌をさせました。 鹿児島県 -南薩農業水利事業-
九州エリア
戦後の国営事業






水のない不毛の地



江戸時代の水汲みの様子
江戸時代の水汲みの様子
井戸をくみ上げるために何人もの力が必要でした
井戸をくみ上げるために何人もの力が必要でした
人の力では困難なため、牛力に頼った
人の力では困難なため、牛力に頼った
土持堀の深井戸
土持堀の深井戸

 笠野原台地は、水源が乏しい上に土壌の保水力が低く、農耕が困難なため、江戸時代初期までは荒れ地でした。次第に開墾が進み、江戸時代末までに台地上の約3割が畑となりましたが、当初から水の確保が課題でした。

 広い土地があるのに十分な水が無い為、一生懸命頑張っても限られた作物しか作れません。

  そのため、水がないシラスが厚く積もる笠野原台地では、よく深井戸が掘られていました。

 台地南部では、人の力で井戸水をくみ上げることができましたが、地下水面が深さ50mを超える台地中部では80m以上の深さの井戸を掘らなければなりません。あまりの深さに、人の力で水をくみ上げることが出来ず、牛の力も使って水をくみ上げていました。

 鹿屋市の細山田地区には、鹿児島県指定史跡「土持堀(つっもっぼい)の深井戸」と呼ばれる、江戸時代文政から天保の時代(1818年から1843年の間)に掘削された、直径約90cm、深さがなんと約64mもある井戸が残されています。

 台地北部では、もはや井戸から水をくみ上げることも困難で、遠く数km離れた台地脇を流れる川から馬で水を運び上げなければならいなど、水の確保に相当な労力と時間を費やしたと言い伝えられています。

 貴重な水だけに、使ったあとも捨てられません。風呂も一回沸かすと、翌日はつぎ足してもう一度沸かしていました。これが二番風呂とよばれ、三番風呂まで使ったといいます。
 水不足により、住民の衛生環境も劣悪な状態でした。例えば、笠野原の小学校児童の41%が眼病患者であったことからも、 その惨状を知ることができます。
 カンショとナタネをたよりに、やっと生きているだけの農業。
 飲み水にさえ苦労する環境の台地農家の生活では、近隣の農村から嫁のきてがなく、「いやじゃいやじゃ笠野原はいやじゃ五十五尋(100m)の綱を引く」と歌にまで詠われたものでした。
 



鹿児島県 ―笠野原農業水利事業