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川南原開拓のあゆみ 〜「川南合衆国」と呼ばれ、日本三大開拓地のひとつに〜 -尾鈴農業水利事業-
尾鈴農業水利事業
九州エリア
戦後の国営事業






川南原の国営開墾事業

クワ一本で不毛の原野に挑む

尾鈴地区位置図
 日向灘に面した宮崎県の中央部に位置する尾鈴地区は、北から都農町、川南町、高鍋町の3町からなり、一級河川小丸川と二級河川名貫川にはさまれた丘陵地である。
 年間降水量は2,400mm程度で、年間日照時間も2,100時間と国内有数である。我が国の平均降水量は年間1,800mmであり、2,400mmの雨が年間を通して均等に降るのであれば畑地灌漑の必要はないが、当地域では6、7月の梅雨期と9月の台風時に集中して降り、一方、春先や真夏にはほとんど降らず 無降雨日が30日以上続くこともまれでない。
 集中して降る雨は、ほとんど農作物に有効利用されずに海に流出してしまうため、干ばつの害をしばしば受けるほか、収益性が高くても乾燥に弱い作物の栽培が困難な状況にある。また、この地域はハウス(温室)による野菜、果実、花などの栽培が盛んであるが、必要な用水は農家が個人で掘った小さな溜池に貯めた天水や地下水等に頼るなど、不安定で利便性も悪い。


 川南への移住は既に藩政の時代から、讃岐国(香川県)の移住者を受け入れたり、また周辺の村の住民を移して進められてきたが、開発されたのはその一部であった。
 1881年に石井十次(1865〜1914、高鍋町出身、キリスト教の博愛精神による孤児救済に生涯を捧げる。日本で最初の孤児院「岡山孤児院」を創設、以来、子供の将来を考えての「鍬鎌主義」の実践により、“働く喜び”を教えながらの教育で約1,200名の孤児を救済。)が川南の唐瀬原開拓を計画し工事着手したが、水の使用について名貫川下流住民の反対に遭い中止された。
 明治の初期に高鍋藩は、当時の士族40余名を小池地区に移住させて開拓に従事させ、用水路を築き開田を進め農業を営ませた。
 1887年に松浦健太郎が四国から七戸の移住者を入植させたのが唐瀬原開拓の端緒である。また、明治初期に十文字原所有の酒井正盛は、3〜4戸の移住者にハッカの栽培をさせていたが、1891年からは鹿毛信盛が耕地にハゼ(蝋の原料となる落葉小高木)を植え、その間の土地を雇用者に小作料なしで開墾させ、大正の中頃には30戸に増加していたが、東京在住の深田謙介に譲渡。深田は、大農場経営方式で移住民を招き入れ、1936年には戸数60余戸に増加した。

 川南原国営開墾事業は1911年に第13代宮崎県知事有吉忠一により開田事業として計画され、1925年に国営大規模開墾事業として農林省に申請された。当時は、人口稀薄で耕地面積も少なく、松林の点在した原野であったが、地元農家はもとより川南村、宮崎県当局の開田事業に寄せる意欲は並々ならぬものがあった。1926年の第19代宮崎県知事時永浦三から内務・大蔵・農林各大臣宛の上申書には、「本県は、気候温暖で地味肥沃であり、土地は平坦にして広大、水源もまた豊富であり、農作物の栽培に適しているが、総面積501平方里(7,727km2)、うち用地は43,500町歩余り、畑地は65,800町歩余り、計109,300町歩余りで、わずかにその100分の15に相当する耕地を有しているに過ぎない。これを他府県の土地利用程度と比較する時、はなはだ寒心に堪えないところである。けれども最近の調査によると、開田できる土地は、なお1万数千町歩余も残っている。これは、実に本県産業関係上唯一の資源であり、児湯郡川南原、新田原および西諸県郡野尻原はともに規模が広大であり、本県下における最も重要な開田予定地である。」とある。

 1919年の開墾助成法施行以降、規模が小さく事業が容易な開墾は着々と実施されていたが、大規模開墾は府県または耕地整理組合などでは実施困難であったため、1927年大規模開墾計画が策定され、全国の500ha以上の大規模開墾可能地を国が実施設計を行い、国営で事業実施することとなった。この計画に含まれたのは全国17地区で、うち川南原を含む5地区が事業実施された。5候補地の着工は、各地からの陳情運動が激しく、容易に決定には至らなかった。

 1928年には、昭和天皇御即位の大典が京都御所で挙行されるに伴い、政府および中央の文武百官が京都に参集したのを契機に、京都府は関係者に巨椋池開墾事業を猛烈に働きかけ、全国5候補地の中で第一着手となった。もっとも、巨椋池の着手は国営開墾の糸口を得ることとなり、他候補地の関係者にとっても大きな喜びであった。
 引き続いての内務・大蔵・農林各大臣宛の陳情書において川南村長(第11代湯地伝吉)は、「目下、農家戸数1,400戸、1戸平均田8反3畝歩、畑1町4反3畝歩となり、農業としての田畑面倍は均衡を失する状態にある。また、場所によっては、総水田880町歩の約3分の1が植え付け不能であり、なお植え付けできる水田においても収穫半減の箇所が多いのに比べ、村内中央部を流れる平田川流域と、川南村と隣接する都農町との境を流れる名貫川流域地区の一部だけが干害の心配がない。したがって、両川とも村内にその源を発する小川であるだけに、常に水田潅漑に対し、村内平田川並びに名貫川流域に水争いが絶えず、時には流血の惨を見ることもある。そこで、一般移住者の多くは水田不足なので、このような村民たちが集まり計画し、開田実現に対し猛然と奮起し、国営事業としての開田方を陳情した。」とある。

 このような経線を経て、川南原国営開墾事業は1938年12月に5カ年事業(1939〜43年)としての実施が閣議決定され翌年事業着手されたが、1944年に太平洋戦争激化のため国営事業は中止された。


宮崎県 ―尾鈴農業水利事業