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水利資産と近代水利技術の融合 大分県 -駅館川農業水利事業-
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宇佐神宮の台頭



宇佐神宮
宇佐神宮
 瀬戸内海奥地という地理的な背景から、古代大和政権の九州進出の拠点とされていたといわれています。宇佐地域は本土と関係の深かく、それは中世に入っても続きました。
 朝廷の力を最大限に利用し、九州の一円支配に乗り出した寺社。全国に約4万ある八幡宮の総社として、全国的に有名な宇佐神宮が誕生します。
 奈良の大仏建立の神託や、天皇即位を狙って共謀した道鏡の宇佐八幡宮神託事件などによって、徐々に朝廷の信頼を獲得していき、8世紀始めには国家神としての地位を確立しています。
 その後、藤原氏、源氏など、その時代時代の権力者の協力を得ることに成功した宇佐神宮は、九州全域に荘園を持つ強大な権力にまで発展しました。
 前述したように、この地域では降雨量が少なく、川を流れる水の量も少ない、水には恵まれない土地でした。そこで、宇佐神宮をはじめとする荘園領主達は、土木技術が高くない中世末期でも、比較的容易に水を引くことができた平野部の開発を進めていきます。その過程で造られたのが大分県に現存する最古の堰、平田井堰です。
 平田井堰が造られたのは1185年。当時、駅館川左岸の低地に位置した33ヶ村、654町歩を灌漑していたと記録にあります。木杭にソダ(小枝)をからませた程度の堰でしたが、土木技術の進歩によって、徐々に強固になり、後の時代には、新田開発が行われる要因にもなりました。
 しかし右岸はというと、駅館川より20メートル以上も高いの台地になっていたため、水を引き入れることが容易ではありませんでした。
 また、下流と上流でも地形は大きく異なります。先に述べたとおり上流部は山が入り組んでおり、山間部の合間の農地に水を行き渡させるためには随道(トンネル)が必要となり、多大な労力と技術を要しました。
 以上のような地形的な理由により、平野部左岸の平野部を除いては、なかなか思うように開発が進みません。後述しますが、左岸上流部の台地が潤されるのは、平田堰の完成から500年以上もあとの桂掛水路の完成、右岸にいたっては、700年以上もあとの明治時代まで待たねばなりませんでした。


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