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水利資産と近代水利技術の融合 大分県 -駅館川農業水利事業-
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戦後の国営事業







南一郎平の闘い



 広瀬久兵衛から大量の資金援助を受けた一郎平でしたが、相手は100年間だれも成功し得なかった難攻不落の計画。10m進んで1cm下げる精巧さを要する水路。1日掘りつづけて数十cmしか進まない随道の掘削作業。成功したかと思えば、随道や水路が崩落してやり直しと、作業は困難を極め、ついには、その資金もついに底をついてしまいます。
 一郎平は多方から借金をして、急場をしのごうとしますが、途中、その借金が返せずに、工事中止まで追い込まれてしまいます。
 しかし、決死の覚悟で送った嘆願書が長崎府の目にとまり、明治2年(1869)、当時日田県知事だった松方正義のはからいによって、政府の事業として続けられることになりました。
現在も農地を潤しつづける広瀬水路

現在も農地を潤しつづける広瀬水路

  その後は、工事も順調に進み、明治3年(1870)、ついに広瀬井手は完成します。それは、1750年に初めて計画が立ち上がってから、120年目のことでした。
 通水後も各所で水路の補強工事をしなければならなかったのですが、国からの援助は、通水時に打ち切られてしまい、あとは実費で行わなければならないという状況に追い込まれてしまいます。一郎平は、家財道具や家までも売りはらい、自らは無一文となって完成させました。
 一郎平の心意気、技術に深く感動したのが、後に首相となった松方正義です。
 一郎平は、明治8年(1875)に、政府高官となっていた松方に招かれ、東京へ行くことになり、以後、疏水事業に従事することとなります。日本三大疏水として挙げられる、那須疏水(栃木)、安積疎水(福島)、琵琶湖疏水(滋賀)。
 その全てに最高技術者として携わって完成へと導き、日本の疏水事業の先鞭をつけたのでした。

広瀬水路略図
広瀬水路略図
広瀬水路は、その後も何度か改修されましたが、完成から130年以上たった今日にいたっても、台地を潤しつづけています。


大分県 ―駅館川農業水利事業