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東北エリア
戦後の国営事業






 

 


太 素 の 水

水源である十和田湖

春の稲生川

1.地域の概況

 本地域は、青森県の南東部に位置し、奥入瀬川(旧相坂川)の中下流部左岸の三本木原台地に展開する十和田市、三沢市、七戸町、六戸町、東北町、おいらせ町の2市4町にまたがる5,974haの受益を持つ広大で平坦な台地を主体とした地域である。
 地域の南西部には、十和田湖や八甲田山地があり、十和田八幡平国立公園となっており、太平洋側には、小川原湖をはじめとする潟湖群が分布している。また、十和田湖や奥入瀬渓流、八甲田山などの景勝地をはじめ、国立公園一帯に湧出する温泉群などの観光資源に恵まれ、観光や保養地として優れた条件を有している。
 地域の農業は、稲作を中心に水田の畑利用及び畑における野菜作等を組み合わせた複合経営を展開しており、県内でも有数の農業地帯である。
 地域の農業開発は、1855年(安政2年)南部盛岡藩士の新渡戸傳(1793〜1871)の指導のもと不毛の台地であった三本木原台地に稲生川を開削して開田が行われたことに始まる。以来、先駆者の意思を継承して農業開発が進められ、国営三本木開拓建設事業(1937〜1966)によって県内有数の水田地帯となった。
 本地区西部を国道4号線、東部を国道338号線が南北に、南部を国道45号線及び国道102号線が東西に走り、これらを軸に主要地方道が接続しており、道路条件は整備されている。
 さらに、2001年12月には、国道4号十和田バイパスと道の駅とわだ「とわだぴあ」が相次いで完成した。
 また、JR東北本線、国道等の基幹交通施設に加えて、2002年には東北新幹線八戸駅が開業し、2010年12月には、東北新幹線全線開業に伴い、国道4号沿いの「道の駅しちのへ」に隣接して東北新幹線七戸十和田駅が開業した。さらには、東北縦貫自動車道が整備され、交通拠点としての役割を担っている。
 十和田市の官庁街通りは、通称「駒街道」と呼ばれており、1986年8月10日には「日本の道・百選」(国土交通省選定)の一つに選ばれた。通り沿いには桜と松の木が植えられ、花壇には季節の花が植えられている。さらに、地域用水整備の一環として、稲生川から水を引き込んだ「せせらぎ水路」も整備されており市民の憩いの場となっている。

2.三本木原台地の歴史

  • 江戸時代以前
     十和田地方で稲が栽培されたのは、鎌倉時代以降と記されている。
     この地域一帯は、八甲田山の噴火による砂礫が西風に吹き流されて堆積した火山灰地帯であり、喬木は育たず、潅木草原地帯をつくっていた。山も林もなく北東風をさえぎるものが何もなく農耕に適さなかったが、広大な草原と薄雪で低温という気象条件は、強健な馬をつくる野外飼育に最も適した地であった。
     ここ、三本木原台地の水田稲作の本格的な開発は、江戸末期からで他地区に比較して非常に新しい。
  • 江戸時代
     三戸郡は、北郡とともに夏期におけるヤマセの影響のため冷害を受けることが多く、しばしば凶作・飢饉に見舞われている。そのため農家は、雑穀、大豆等の畑作と馬産に力を入れた。この地の畑作の中心は、粟、稗などの雑穀と江戸中期以降に商品作物化した大豆であった。
     北郡の特徴は、七戸通は大豆と馬の生産を中心とし、野辺地通は盛岡藩の最大の貿易港である野辺地湊に依存し、田名部通はヒバ材と俵物の移出を中心として生計を営んでいた。
  • 三本木原台地
     三本木原台地とは、十和田市、六戸町、下田町、百石町、三沢市のほか十和田湖町、七戸町、上北町の一部を含む一円で、南は奥入瀬川、北に砂土路川から三沢市街地を連ねる間に、西は丘陵山地より、東は太平洋に至る東西27km、南北8km程の台地である。
     特にこの地方は、冬は八甲田連峰から吹きおろす西風と、夏は冷海霧を含んだ低温、多湿の風が太平洋から山地に向って吹く北東風、いわゆる「ヤマセ」の常襲地帯である
  • 新渡戸傳翁による開拓事業
     三本木原台地の大規模開拓は安政2年(1855年)、南部藩士、新渡戸傳(つとう)翁が63才の老齢でこの広大な台地開拓の大志を企て嫡子十次郎と共に、心血をそそぐこと10年余、ついに稲生川上水工事を完成し、三本木新駅(現在の十和田市街地)を建設し、南部藩北辺の発展の基礎を築いたことに始まる。
     嘉永5年(1852年)8月、傳翁は家老南部土佐の命を受け、測量技術者や穴堰普請者(隧道工事施行者)を5人程連れ、沢田村小笠原奥治宅に止宿し、その概要を調査測量した。測量に当たっては水準器、方位儀、間縄図から八線表を用いたトラバース計算を行っているように思える。なお、測量機器類については新渡戸記念館に所蔵展示されている。
     その結果、穴堰(隧道)560間を掘抜く事を骨子とし、事業費2,500両程を要する大事業計画を策定した。しかしながら、当時の藩の財政はどん底の状態であったため、財政上から藩営事業としての採用までに至らなかった。
     藩営事業にはならなかったものの、新田開発を志すものが相次ぎ、傳翁は多くの人々から新田開発適地の見立を依頼されていた。傳翁と宮良助等は、依頼された同士のため、また国益等を考慮した開発計画を策定して発表し、より多くの参画者の募集を図った。それは今までの新田開発方式にも該当しない大規模な開発計画であり、現在の株式の形体をなしている。
     この新田開発儀定書は、三本木原開拓の中枢で、開拓計画の概要、事業への出資金、開墾地配分の割合、出資者との契約事項にも触れ、安政2年(1855年)4月時点の出資加入者の契約書とともに「十和田市新渡戸記念館」に保存されている。
     この穴堰の掘抜きにあたっては、南部藩中でも特殊技術者を総頭領とする潜穴普請集団を手配し、極めて統制のとれた施工を実施している。
     三本木原台地の初収穫は、上水成功万延元年(1860年)4月19日初田(初めて田植が為されたからの地名)に田植が行われ,換算総收量45俵と報告されている。

 新渡戸家の銅像(左から十次郎・稲造・傳)
・新渡戸傳:盛岡藩士として開拓に尽力し三本木原の発展の基礎を築いた。
・新渡戸十次郎:傳の長男。新町の建設に尽力し十二町四方碁盤の目状の都市計画を立てた。
・新渡戸稲造:十次郎の三男。水野陳好氏が三本木原を国営事業にするために度々陳情に上京した時、当時貴族議員であった稲造博士がその窓口となり尽力した。

 十次郎が作成した都市計画図
 慶応元年(1865年)に開拓開始から10年目の成果を調べる「新田検地」が行われ詳細な地図が作られた(「慶応元年新田検地大絵図」)。
 十次郎は、区画整理とともに街の中に用水路を設け衛生面、防災面に配慮し住宅地域、耕作区域、商業区域の土地利用区分を行い、近代都市計画の先駆的な例として注目されている。
(十和田市立新渡戸記念館蔵)

 

 

 

 

三本木開墾区域内略図
(十和田市立新渡戸記念館蔵)

幻の穴堰(第3のトンネル)
新渡戸十次郎の第2次上水計画(1860年)が未完に終わり、掘りかけのトンネルが残っている。

 

三本木平願新田見立図(十和田市立新渡戸記念館蔵)

  • 明治・大正
     明治期に入ってからの南部地方の農地開発は、先ず明治初期、政府当局の手による「殖産興業政策」に始まる。南部地方に対しても士族授産の形で大農場、大牧場の開設が行われると共に、やや組織的に耕地の開発が進められた。その中心は上北郡三本木原の開墾事業である。
     明治維新により近代国家が創出され、廃藩置県、秩禄処分、地租改正などさまざまな改革が行われていた時代に、陛下御自ら維新後の国内の実態を悉に掌握すべく、明治9年6月2日東北御巡幸が実施され、当地には7月12日に通過された。
     明治天皇の御聖旨が契機となり、明治17年(1844年)三本木共立開墾会社を創立し、大規模に開墾、植林、上水、分水の諸事業が行われ、官有地御料地の払い下げによって、明治38年(1905年)までに開墾された面積は水田606町歩、畑558町歩に達している。
     明治初年以降の開発がしばしば円滑を欠き、既耕地の荒廃が続出したことは、何よりも当地方の劣悪な自然条件によるもので、火山灰質の燐酸吸収係数の大きい地力のやせた土地では、作物栽培が極めて不安定であった。
     当時大規模な開墾を可能にしたのは、営農のための新技術を研究し、品評会等を催し、特に過燐酸石灰導入の先鞭をつけた澁澤農場や工藤農場のような大農場が果たした役割が大きい。この過燐酸石灰の施用がこの問題を解決した。ちなみに明治27年(1894年)の過燐酸石灰施用は上北郡の1,500貫のみで、当時津軽地方では施用されていなかった。

開削当時の稲生川(明治の後期

【三本木原開発経緯の概略】

 明治17年

三本木共立開墾会社設立、官有地払い下げ請願し983haを借りる。

 明治27年

三本木共立開墾会社を発展改称し新たに三本木開墾株式会社設立 新たに3,075haを借り開墾地に充当。

 明治39年

開墾事業が進み、法量取入口から太平洋まで32.167kmの水路開さく完了、開田面積計606ha。

 大正11年

上流地主側と会社との間に水利権紛争、上流側に稲生川普通水利組合

 大正12年

下流側に稲生川耕地整理組合(現在の土地改良区)を設立し調停される。

 大正13年

三本木開墾株式会社解散

 その後幾多の変遷を経て、昭和13年1月(1938年)国営三本木開拓建設事業所が開設され、大規模な開田事業を進めることにより大きな発展を見ることになる。

3.国営三本木開拓建設事業

  • 三本木開拓建設事業
     三本木開拓建設事業は、全国で2番目の開墾国営事業として昭和12年着工、30年間に亘る長年月を経て、昭和41年9月30日に完工したものである。
     事業は、着工〜第2次世界大戦〜同大戦中の営団事業施行までを第1次国営事業と称した。
     第2次大戦後は、農地調整法改正法律案、自作農創設の強化、農地の解放、農地の価格及び地主への代金支払方法、小作料の金納化等が規定され、更にこれに関し強化した農地調整法改正法律案及び自作農創設特別措置法(昭和21年10月11日第90議会決議)いわゆる農地改革が実施されることとなった。
     政府は、戦時中にも増して欠乏した食糧の確保と、敗戦の混乱した社会不安の防止対策の一環として、敗戦に伴う600万を超える復員者をはじめ、戦災者や外地からの引揚者等、離職者の帰農を図るため、昭和20年11月9日に緊急開拓事業実施要綱を閣議決定した。この閣議決定により、農地改革によって開放される国有地、民有地並びに軍用地の未墾の開拓適地を取得して、干拓を含む165万町歩(開墾面積が内地で85万町歩、北海道で70万町歩、干拓面積が湖面干拓で7.5万町歩、海面干拓で2.5万町歩)100万戸(内地80万戸、北海道20万戸)を入植させる大規模な開拓計画が樹立された。
       この閣議決定を受けて、三本木原の開拓は、戦後、軍の解体によって大蔵省の管理下に入った軍馬補充部用地を中心に、旧来の三本木原(三本木工区)をはじめ、天間林、谷地頭の両工区及び沼崎工区を含め国有民有の開拓適地を新たに地区に編入し、緊急開拓事業に転換することで急ぎ計画書を作成した。これにより昭和24年1月16日付で事業実施の決済を受け、地方事業を含めた開発営団事業の一切を直ちに引継ぎ(農地開発営団は翌22年9月閉鎖機関に指定されて解散)、再び大規模国営開墾事業として発足することになった。これが第2次国営事業と言われている。
     この事業の発端は、安政2年(1855年)、三本木原の開祖新渡戸傳翁の雄大な開拓の構想が起因である。

   開墾当時の三本木原台地
    昭和13年(1938年)高清水付近の様子

  稲生川
   昭和12年(1937年)に始まった国営三本木開拓
  により改修された稲生川

奥入瀬川河水統制

 国営三本木開拓建設事業は昭和12年3月29日、第70帝国議会において予算成立し、昭和12年度より昭和18年までの7ヶ年継続事業として、開田面積1,500ha十和田湖の水利用水深1.076mとして実施することになった。
 しかし、ここに至るまでの約10年間、十和田湖及び奥入瀬川の河水利用について詳細な現地調査を行い、当時の内務省との協議がくり返されている。即ち、三本木開墾株式会社が解散した大正13年(1924年)に、青森県耕地課溝口三郎主任技師(後に青森県耕地課長)は、三本木原の大規模開田を実施するためには、十和田湖及び、奥入瀬川の水利用が必要と考え、その水利用について立案し、農林省と協議した。大正15年(1926年)、農林省は、可知農林技師を現地に派遣し、十和田湖及び、奥入瀬川一帯に亘る調査を行った。その結果、本地域の大規模開田が有望となり、農林省は昭和2年に三本木原を計画区域に指定した(7,000ha)。
 そのころ、内務省が十和田湖岸を史蹟名勝天然記念物に指定する動きがあったので、十和田湖を指定するのに際し、当方計画の7,000ha開田に支障のないよう同年12月28日に農林次官より内務次官に申し入れた。
 昭和3年2月1日に、内務次官より農林次官宛に『自然美に十分留意し、湖水の低下及び、奥入瀬川の増加計画を樹て、計画決定次第協議のこと』と回答があり、同年十和田湖岸は遂に史蹟名勝天然記念物に指定された。
 農林、内務両省は協議の上、十和田湖の利用水深を、5.5尺(1.67m)と定め、開田面積は当初計画7,000haを半減し、3,300haと定めた。
 その後、昭和10年(1935年)に入り、十和田国立公園の指定の動きが始まり、三本木原開田をめぐり、農林、内務両省間には次のような協議が成立している。

 昭和10年12月10日 農林次官発 内務次官宛
 十和田国立公園の指定については、十和田湖水利用による三本木原開墾計画につき、両省間において協議整いたる上に行われたき旨。

 昭和10年12月23日 内務次官発 農林次官宛
 十和田湖水利用による三本木原開墾事業に対し当省としては、これを尊重し、将来樹立すべき具体的計画については、その支障なく、実現するよう善処すべき旨。

 昭和10年12月24日 農林次官発 内務次官宛
 十和田国立公園地内に国有林を編入の件は同意する旨。
( 条件)三本木原開墾計画については、国立公園の関係を考慮するも「既定計画」に大なる変更を加うることなく、当省において、樹立すべき具体的計画の実現に支障をきたさざること。
 と念を押し、内務、農林両省は、完全に意見が一致し、国立公園編入の手続きが行われた。[既定計画・・・昭和3年3月27日、十和田湖岸の国有林を名勝及び天然記念物に指定する際の条件、開墾面積3,300haを指す。]
 このようにして、昭和11年2月1日、十和田国立公園の指定がなされ、同年5月23日、第69帝国議会において、三本木原大規模開墾計画が可決された。(開田面積3,300ha)。その際、同議会において、逓信省も、十和田湖水利用の発電計画を示し、農業計画に影響を与えない旨の説明がなされている。そして昭和12年3月29日、第70帝国議会において、三本木原国営開墾に関する予算が成立、事業着工に踏み出したのである。
 そして、予算成立に先立ち、国営三本木開拓建設事業の実施と関連して、内務、逓信、農林の各省庁の間に、「奥入瀬川河水統制計画に関する協定が成立し、国立公園としての十和田湖の風致維持と、水力発電事業、国営三本木開拓建設事業、既存農業水利との調整が図られた。これによると、当初の計画の3,300ha開田から、2,500haと削減され、しかも、そのうち十和田湖水利用分は、1,400ha、小川原湖利用分1,100haとなり、河水統制計画の下での、大規模開田事業は着工されたのである。昭和13年1月、国営三本木開拓建設事業所兼田沢疏水開墾事務所初代所長に溝口三郎が着任した。

4.国営相坂川左岸地区

  • 総合開拓パイロット事業計画から相坂川左岸地区への転換
     三本木原台地は、国営三本木開拓建設事業により農業の長期的展望に燭光を見出したとは言え、青森県南部上北広域地域を観るに未墾地と畑地が多く、誠に不安定な農業であった。ここに十和田湖と小川原湖との二大水源を持ち乍ら地域の総合的開発対策が遅れて、少数の地域内の農民は稲作技術も耐冷品種(藤坂5号)の育成、栽培技術(特に育苗・苗代等)の改善普及に急速な進歩があり、『ヤマセ』による冷害常襲地帯といわれた太平洋岸の稲作も安定を示しつつあった。
     しかるに全体的には畑作中心で低所得な不安定営農で、開田による稲作経営指向は地域農民の悲願であった。青森県では地域の農業開発を進めるに昭和34年12月『小川原湖及びその周辺地域総合開発計画に関する意見書』を提出し、これに係る調査を国直轄調査として採択するように申請したが採択されなかった。
     県は、地元要望に応えるために県単調査費を計上し、3ヶ年継続して調査を実施し、昭和40年(1965年)6月25日十和田市上北地方教育会館に於いて、国営上北広域開発推進協議会総会を開催し、上北広域総合開発事業の実現について今後の運動方針を採択した。
     このように地元では、9,010haの水田造成に意欲を示していたが、昭和44年2月10日の新規開田抑制の通達により開田を主体とする事業計画を大きく変換し、河水統制に縛られた水利用からの脱却、恒常的な水不足の解消及び老朽化した水利施設の更新を図るとともに砂土路川流域の低平地の排水改良を図るため、昭和47年4月1日相坂川左岸地区総合土地改良事業調査地区として採択され、昭和51〜52年の全体実施設計を経て、昭和53年度国営相坂川左岸地区かんがい排水事業として誕生した。
  • 事業の概要
     本事業は、青森県の南東部に位置する十和田市外1市6町にまたがる水田5,725haの用水改良、排水改良及び畑163haの畑地かんがいを目的とするものである。
     このため、頭首工、揚水機場及び調整池を新設して水田の不足する用水と畑の用水を確保し、地域の環境に配慮しつつ、幹線用水路(8路線、L=65.4 km )、支線用水路(39路線、L=38.3km)の新設、改修により用水系統の再編を行うとともに、頭首工(2ヶ所)の改修を行い、用水の安定供給と維持管理の軽減を図る。
     また、砂土路川(L=9.9 km)の改修を行い周辺水田の排水不良を解消する。
     併せて、関連事業により末端用排水路の整備や区画整理を実施することにより営農の合理化・複合化を促進し、生産性の向上と農業経営の安定を図るとともに、地区内の農業用水が従来から有している地域用水機能の増進に資するものである。