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戦後の国営事業






 

 


1.庄内平野開発のよあけ

 赤川が流れる庄内平野の開発の歴史は、朝廷が律令国家として力をつけた七世紀中期頃から始まったと言われている。和銅5年(712年)には出羽国が設置され、地方を治める体制も整い地域開発が進められた。
 この地域は、定住人口が少ないため、「土地は地味が肥え田野は広いから、近国から国民を移住させ地の利を保つべきだ」との意見が朝廷内で出され、賜置、最上二郡及び尾張、信濃、上野、越前、越後国から数次にわたり柵戸(きのへ)として千戸をこえる人々が移住。庄内平野の開発は国家的事業として推進され、奈良時代初期にその基礎が確立した。
 古代律令国家が崩れ武士階級が台頭した頃、鎌倉幕府が任命した地頭と在郷の豪族は荘園の権益を激しく争い抗争を繰り返し、次第に幕府の力を後ろ盾にもつ地頭がその勢力を強め、やがて地頭は地方大名へと成長していった。さらに隣国の大名間での戦いも経て、慶長六年(1601年)には最上義光が庄内三郡を治めるに至る。

○赤川の名前の由来に多くの説

・アイヌ語の「川」を表す言葉からの説
・月山の南西山腹にある湯殿山から流れる、赤く濁った水からの説
・湯殿山霊場に供える浄水の意味の閼伽(あか)の流出したことからの説。
・垢川ともいい、水源が霊山出口の門口にあたり、登拝者は垢を落して清くするというところからの説。
・お家取り潰しのうえ、肥後藩から鶴岡に流された加藤忠広が、生まれ故郷の熊本の「白川」にちなんで「赤川」と名づけた説

○庄内の名前の由来

・山形県の日本海に面した地域一帯を称する「庄内」または「荘内」という地名の起こりは、古代出羽柵や国府(城輪柵)が置かれ平安時代には、この地域にあった遊佐、大泉、櫛引の三大荘園のうちで最も栄えた大泉荘に由来するのが定説と言われる。この「荘園の内側」すなわち大泉荘内をもって、庄内と呼ぶようになり、平安時代の末期、赤川流域一帯は大泉荘と呼ばれ、後白河法皇の所有する荘園でした。その後、鎌倉時代から室町時代にかけ武藤氏が地頭となり、天正年間(16世紀半ば)あたりから「庄内」という呼び名が定着したと言われている。

 

 

庄内平野を流れる赤川と月山〜朝日連峰

庄内平野と「赤川・最上川」
「出羽三山・鳥海山」

○豊かな水源と広大な土地

 庄内平野の中央を北上し最上川と合流する赤川は、山形県庄内地方の南半分を流れる河川であった。近世になりこの地域の頻繁に発生する洪水対策として直接日本海に注ぐような最上川と赤川の流域変更の大工事が行われた。
 赤川は、海抜963mの大鳥潮を源とする大鳥川と月山・湯殿山から発する梵字川との二大支流を朝日村落合地点で合流し、 赤川となって約40km庄内平野を北流し、袖浦地点にて大山川を合流しつつ、砂丘を掘り割った西山新川にて日本海に注ぐ。
 以前は、袖浦地点より大山川合流後砂丘に沿って北上し、最上川に合流していた。昭和2年に淡水放流のために西山放水路が開さくされ、それが次第に本川化し、昭和30年の旧赤川干拓により現在の姿となった。
 赤川上流域は年間降雨量3,000mm以上で、しかも冬期は丈余の積雪となるから、5月〜6月の代かき田植期はそれらの融雪永のため水は極めて潤沢である。古くからこの赤川を利用して、流域に水田がひらけ、現在水田13,000haの豊かな穀倉地帯となっている。

・流域の地形

 赤川流域の地形は、東端に月山(1,980m)、湯殿山(1,540m)、南端付近に朝日連峰に連なる以東岳があり、その北部に茶畑山(ちゃばたけやま) (1,377m)、葛城山(かつらぎさん)(1,121m)、高安山(たかやすやま)(1,244m)と上流の山間部は標高 1,000〜2,000m と比較的高く険しい地形の山々が連なっている。流域西境界部は標高 1,000m 以下の摩耶山地(まやさんち)が南北方向に連なっており、雪崩浸食等により標高の割に急峻な山容を呈している。
 山間部の上流部地形勾配は 1/15〜1/140と急峻な地形をなし、梵字川合流点付近を扇頂部とする中流部の扇状地区間は 1/190〜1/1,000 の地形勾配である。赤川流域の下流区間は国内有数の穀倉地帯である庄内平野が広がり、内川合流点付近より下流の地形勾配は約 1/2,500 と緩やかになる。赤川と最上川を分離して日本海に直接放流する放水路区間は、日本海に向かって1/1,100 程度の地形勾配である。
 また、下流部区間の右岸側は、赤川の北側に位置する最上川に向かう地形勾配となり、最上川流域となっている。

赤川流域地形図

赤川流域地質図

・流域の地質

 流域の地質は、上流部は第三紀層に属する砂岩、礫岩、凝灰岩、頁岩層から構成されているとともに、月山等の火山噴出物が広く堆積した脆弱な地質である。これに加え、急峻な地形であるため、地すべりや崩壊が発生しやすい。中下流部の庄内平野は第四紀沖積世に属する砂礫、粘土、泥灰の互層から構成されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

・流域の気象

 流域の気候は、日本海の影響を受けて多雨・多湿の海洋性気候で、冬期には季節風の影響が大きい。平均年間降水量は平野部で約2,000mm、上流の山間部では約3,000mm 以上に達し、その多くは降雪によるもので、東北でも有数の多雨豪雪地帯である。降雨の要因としては、前線性のものが多く、流域内では標高が高い地域で降雨が大きくなる傾向がある。

月別降水量および平均気温

平均年間降水量

2.中世・近世の赤川地域の開発

 赤川の治水は古くは、関ケ原の戦以降上杉氏にかわって、慶長6年(1601)に庄内を領有することになった最上義光によるものがある。それは「慶長中に最上家は熊出の江口を締切り、梵字川を東岩本村の方へ落し、城下の水難を除き、鶴岡は永く都となった。この普請は石を畳み、堤を築き木材をもって番田筋の水口を締切った。」(鶴岡市中央)と伝えられる如く、大規模な工事であり、 赤川を治め鶴岡の城下町としての発展を画するものであった。
 江戸時代を通じて記録に残る大洪水としては、延宝より幕末にいたるおよそ200年間に13回を数えることが出来ると云う。しばしば、破堤したのは右岸では黒川村の因幡堰取入口附近から、 石野新田・松尾・赤川にいたる地域、左岸では青龍寺川取入口附近から、東荒屋・伊勢横内にいたる地域であった。
 近世初頭、西山以東の長崎・茨新田・西沼・猪子・成田新田・押切新田・広野新田におよぶ広大な地域は、茫々たる湿地で葦が生い茂っていた。夏期の大雨、春先の雪代水によって、赤川をはじめ諸川の水量が増加するたびに、一面河床になったと思われる。
 いまこの地域における新田開発の年代をあげると、長沼新田(天保2 年1645)、茨新田(明暦2年1656)、成田新田(万治元年1658)、福岡(万泊2年)、押切新田(寛文2 年1662)、ニロ新田(寛文4年)となっており、17世紀中期以降、新田開発が進み、集落が形成され始めたことになる。
 しかし、赤川・大山川・京田川はしばしば汎濫し、赤川疏水を抜きにしては開発も遅々として進まなかったと思われる。
 享保年間にいたって、黒森の東から坂野辺新田まで、巾40間、長さ1,020間余を疏削する計画が立てられ、施工された。これによって、赤川の水流は速度を増し、汎濫の憂いを大いに減じたということである。
 享保から天保にいたるおよそ百年間についても、しばしば疏水工事が行われたとみえ浜中地方に江戸時代から伝わる盆踊りうたにも次のようなものがある。

           いやだちゃ 行きたくないちゃ
           黒森の普請 普請 川普請 度々困る。

 赤川地域の水田地帯の赤川からの取水は次の9 つの堰によって維持されてきた。上流より順に上げていくと、熊出堰(左岸)、三ケ村堰(左岸)、青龍寺川(左岸)、大川堰(右岸)、志田堰(左岸)、因幡堰(右岸)、五ケ村堰(左岸)、大宝寺堰(左岸)である。
 これらの堰の設立年代及びその順序は、必ずしも定かでないが、かんがい面積の小さい堰のいくつかを除けば、いずれも相当古く、戦国の頃あるいは徳川中期頃に開かれたものらしい。

赤川土地改良区区域図

3.維新後の水利事業の展開

(1)水源の確保

 藩政時代において、山林取締りにあたったのは郡奉行である。山林はすべて藩主の所有するところであったが、これは分散山あるいは歩納官林といわれ、農民に無料で貸し下げ、樹木を植えさせてその保護をはかった。樹木が充分に成長した時には、水源涵養に障害のないかぎり、その樹木の栽植者に伐採が許された。当時各川の流城でうつ蒼たる森林をみないところはなかったといわれる。
 しかし廃藩置県後、林制がゆるんでから、木材の需用が急増したこともあって、乱伐の傾向が目立ってきた。県でも明治1 3 年養苗園を設け、はげ山となった官有林等に移植し、山林の保護をはかり、監守人あるいは官林巡視人をおいた。民有林にあっても、明治14年、有志か組合を作り、世話係をきめ森林保護の計画を立てていた。
 赤川普通水利組合では、大々的に水源林を守る運動に総力を挙げることになり、まずは官有林を保安林に編入する運動を開始しました。その結果、この集水地帯の一部を水源涵養林にするため、1908年(明治41)及び1914年(大正3)、1917年(大正6)にわたり、旧・朝日村地内の国有林3万522haを保安林として設定させました。また、国有林、私有林合わせ1319haを払い受け及び買収し、区有財産として人工造林、維持管理を行なってきました。保安林への編入は、燃料用木材の伐採を制限することにつながりますから、赤川普通水利組合では損害賠償措置として、大鳥集落(大泉村)へ給与金を支払う契約を行ない、1915年(大正4)以降は水源地保護委託費の名目で、今日に至るまで支払いを続けている。

紅葉の大鳥池 

(2)農業生産の発展と水利秩序

 庄内平野では、乾田馬耕および耕地整理事業等の先進的展開によって、他の大河川下流平野(仙北平野や蒲原平野) にくらべ、水稲反収が早期に二石段階をむかえ、しかも安定していた。水稲反収の増大は、地主の小作料収入を増やすと同時に、耕作農民の取分をも増加させずにおかない。耕作農民の農業経営に対する関心の高まりは、水利事業との関連で言えば、水害の脅威に最後的にとりのぞくという治水の完成を求める動きとなってあらわれるであろう。農業生産の発展は、農業水利秩序の再編成を現実的におしすすめていく原動力であった。
 庄内で堰と言った場合、取水口ではなく用水路を指す。また、溝と堰は明確な使い分けがあって、溝と言った場合は民がつくって民が管理したものを、堰と言った場合は官がつくって民が管理したものを指す。
 先人が苦心してつくった堰の間では、取水のための取り決めが<分水慣行>として厳しく定められていた。この<分水慣行>は、明治以降、実状に合わせて改められている。

水の五則

 昔は湿田で土壌が柔らかく、膝まで没する有様で農作業は困難だった。そこで取り上げられたのが湿田の乾田化と馬耕作業である。明治、大正に渡って、我が国農業界の指導的役割を果たされた農学士・横井時敬(よこい・ときよし)の推薦で伊佐治八郎が庄内に来た。横井時敬は「昔なれば即ち沮洳(そじょ=湿地)、今乾田と為る、馬以て人に代り、馬健(すこやか)に堅(かたき)犁(たがや)す、我稼々(みのりぎ=しげる)たり、歳取口千、鳥海之陽(みなみ)、遊佐之辺、民の為に利を興し、之が為に率先し、力を省き功を倍にす、業績永(とわ)に伝らん」と称えた。

伊佐治八郎/乾田馬耕 

(3)農業用水の水源増強

 用水源の増強もまた、赤川地域の重大な課題であった。4月〜6月は、月山・朝日連峰の融雪水のため水量は極めて豊かであるが、夏期は、渇水が著しい。従って此の期の各派川の分水が重大な問題であった。戦後、庄内では、発電・給電事業の発展が盛んであったが、それによって揚水機の農業への普及が可能となった。国及び県の水利改良への援助が盛んになったことも、庄内の揚水機の設置、大鳥湖の利用が進められ、大鳥川の源である大鳥湖(水面積約42町歩、終貯水量14,590,000m3) を夏期の渇水期に利用しようという考えは以前からあったが、昭和8年、県営の用排水改良工事として着工されることになった。
 戦後の時代における赤川の冶水、利水の特徴は、洪水調節ダムの築造と電源開発の進展である。これらによって赤川の農業水利はかってない大きな変化を受けることになった。
 河床低下に伴う、合口取入堰堤新設の計画は、利水のための河川構造物を管理する赤川土地改良区と取入ロを管理する各堰とを真向から対立させるものとなった。各堰は、この際、各堰土地改良区の連合体に切り換えることを望んだ。
長い歴史と利水に多大の実績を残し、一定の社会的勢力として存在する赤川土地改良区が簡単に解散に踏みきるわけにはいかなかった。両者の対抗は、赤川史上かってないものとなった。
 しかし、古き形式―国・県による治水があまり期待出来ず、かつ農業用水内部で、上下流対抗分水問題存在した時代における、一定の地域的治水体制は、新しい時代一国・県の河川掌握が確立し、 農業用水内部での分水問題の緩和された時代においては、変えられる外はなかった。
 行政機関もまた、土地改良事業の新しいにない手を各堰に期待した。
赤川土地改良区はついに昭和35年11月に解散し、赤川土地改良区連合が新たな利水管理者として登場し、新しい事業の取り組みにつながっていった。

地域の用水施設の概要

地域の用水源の概要

4.国営赤川農業水利事業の概要

(1)受益地

 山形県鶴岡市を中心として赤川の両岸に展開する面積約13,000haの米作地帯で 鶴岡市を始め酒田市、三川町、藤島町、余目町、羽黒町、櫛引町、朝日村の2市5町1ケ村に跨り庄内平野南部の大部分を占めている。

(2)事業概要

 地区のかんがい用水は主水源を赤川に求め、左右両岸9ケ所の井堰から取水するとともに大山川、 京田川、藤島川、並びに地区内用排水路に設けられた大小48ケ所の揚水機による補水、および月山々系濁沢、横倉沢、田麦川の渓流を集水する天保堰並びに、母狩山系等の渓流水、又は大小2 9 個所の溜池によってかんがいしてきた。
 又、赤川に依存するかんがい用水量については昭和9年に赤川支流大鳥川上流の大鳥湖(自然湖) に制水門を設置したことおよび昭和31年の県営事業による荒沢ダム(治水、農業用水、発電の多目的ダム)並びに昭和33年の電源開発事業による梵字川上流八久和ダム(発電専用)の完成により、赤川の渇水量が安定し、かんがい所要水量を略満足するようになった。
 しかし、赤川流況は、昭和初期の赤川に新川の開削と前記2 つのダムの築造および砂利採取の影響をうけて年々河床が低下し、加えるに取水施設も老朽化して取水は益々困難となってきた。
 一方地区内利水の状況は、従来の赤川渇水量が少なかったため、用水路断面が小さく分水が不合理で、末端水路も未整備で用排兼用水路が目立ち、湿田又は半湿田が大部分を占め、これらの悪条件が農業経営の合理化を阻害する要因となっている。
 このような現状に対し近代化農業を推進するには、放水を安定化し、地表地下排水、区画整理、 用排水分離による合理的水理系統の確立等、土地基盤を整備するほか、 これ等により増大する所要水量をも確保する必要がある。
 このため本計画では、既存9ケ所の取水井堰のうち8ケ所を統合する頭首工1個所を朝日村熊出地点に築造し、下流部用水を補給するため河川還元水を反覆取水する揚水機場1 個所を三川町三本木地点に新設して用水を確保すると共に渓流掛の水利転換と併せて、基幹々線用水系統を新設改修し、更に附帯県営事業並びに大槻模圃場整備事業により末端用排水組織および圃場の整備を行う。又、上流部の過度の漏水田地区面積約3,039haに対しては、淤泥かんがい事業による客土を行い減水深抑制による用水の節減と土壌改良による生産力の向上を図る等各種基盤整備事業を行い、農業経営の合理化と地域農業の発展を期すものである。

(3)主要施設

赤川農業水利事業計画一般平面図

地域の取水施設を合口した赤川頭首工

赤川頭首工(堤長166.9m、堰上高3.05m、取水量49.87m3/s)
赤川サイホン(延長347.5m、通水量16.4m3/s)
赤川揚水機場(取水量6.1m3/s)
西幹線用水路(1号〜4号)(総延長21.3km)
東幹線用水路(1号〜3号)(総延長31.8km)

計画用水系統模式図

写真転用、文章引用などの出典

文章引用

赤川の名前の由来は「酒田河川国道事務所 からも引用(以下リンク先)」
http://www.thr.mlit.go.jp/sakata/office/works/river/out-aka-f.html
庄内の名前の由来は「山形県 庄内地域概要 より引用(以下リンク先)」
http://www.pref.yamagata.jp/regional/syonai_bo/guidance/summary/
7337003publicdocument200605250441169980.html

写真転用

航空写真 NO.1 庄内平野
http://www.sapc.jaxa.jp/gallery/cat01/detail/D-1464_l.html

航空写真 NO.2 庄内平野
http://stat.ameba.jp/user_images/20131021/12/aerophotographer/34/76/j/
o0800053412723307757.jpg

地形図A/地質図B/気象図C は全て以下のサイトから
http://www.mlit.go.jp/river/basic_info/jigyo_keikaku/gaiyou/seibi/pdf/akagawa25-5.pdf

図D/写真NO.3/図E は全て以下のサイトから
http://www.maff.go.jp/tohoku/nouson/kokuei/akagawa/rekisi.html

図F/図G は全て以下のサイトから
http://www.mizu.gr.jp/images/main/kikanshi/no43/mizu43i.pdf

写真NO.4 は以下のサイトから
http://www.shonai-nippo.co.jp/square/feature/exploit/exp193.html

写真NO.5 は以下のサイトから

http://www.maff.go.jp/tohoku/nouson/kokuei/akagawa/top.html

図H/図I は以下の文献から
「赤川農業水利事業誌」