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栗駒の麓に抱かれた伊達藩の米どころ 宮城県 ―迫川上流農業水利事業
東北エリア
戦後の国営事業






 国営迫川上流農業水利事業は、宮城県栗原郡の築館町、若柳町、栗駒町、一迫町、鶯沢町、金成町、志波姫町と登米郡、石越町、西磐井郡、花泉町に拡がった、10,680haの広大な受益面積を対象としています。流域の約30%が農地として利用されており、水田の面積は県全体のほぼ4分の1にあたるという有数の穀倉地帯を形成しています。


栗駒山(くりこまやま)と迫川(はざまがわ



 温度計のなかった昔は、田植えの時期を様々な自然現象から読み取りました。雪の多い北国では、山の残雪や露出した山肌の模様から地域の気温を知りました。
  この地方は栗駒山。下の写真のように栗駒山中腹の残雪が駒(馬)の形となって春の到来を告げ、その豊かな雪解け水を山里にもたらします。


 栗駒山からこの地域へ流れ出る川は一迫川、二迫川、三迫川。いずれも平野で合流し、迫川(はざまがわ)」となります。文字どおり山と山の挾(はざま)を流れてくる川の意味でしょうか。あるいは、この川が古代ヤマト政権の勢力範囲と蝦夷勢力の挾間(境界線)であったとする説もあります。古代からこの地は東山道(江戸以降は奥州街道、現国道4号)が通り、北上盆地(一関、平泉、胆沢など)に入る手前という軍事上の重要な地点でした。東国制覇の拠点として築かれた多賀城、胆沢城の中間にあり、この川がヤマト政権の前線であったという説もうなずけます。
  ヤマト朝廷は、言うまでもなく稲作を財政基盤とする政権であり、その意味では古代、この地域が稲作の最前線であったということにもなります。しかし、現在のような穀倉地帯となるには長い時と労力を必要としました。



宮城県 ―迫川上流農業水利事業