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栗駒の麓に抱かれた伊達藩の米どころ 宮城県 ―迫川上流農業水利事業
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戦後の国営事業






集落の形成



 続日本書紀によると「神護景雲元年(767年)陸奥国栗原郡を置き、伊治城を築き、3年造営を終わる。その土沃壌にしてその毛豊穣なり。百姓2千5百余人陸奥の国伊治村に置く。また延暦15(796年)関東・出羽・越後の国民9千人を発して伊治城に遷し置く。」という記述があります。この伊治城がどこかについては諸説ありますが、伊豆沼の北西付近(築舘市城生野)とするのが有力とされています。遺構・出土品の状況から一迫川と二迫川合流点に伸びてきた舌状の台地の端に位置し、その規模は東西約800m 南北900mであったと推定されています。文面から察すると、意図的に住まわせたようで、おそらくは集落の形成は自然発生的なものではなく軍事上の理由によるものだったのでしょう。
  「和名抄」によると栗原郡には栗原郷・清水郷・中村郷・会津郷、新田郡には山沼郷・貝沼郷の名がでてきます。栗原郷は二迫川、清水郷は一迫川、中村郷は三迫川の流域に、山沼・貝沼郷は伊豆沼周辺と考えられます。郷は当時の集落につけられた名称であり、この郷の存在する場所は河川の自然堤防の上や、丘陵の麓、河岸段丘面などの水利の良いところが選ばれて、集落が形成されていったものと思われます。



宮城県 ―迫川上流農業水利事業