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三河の恵み―矢作川の流れ -矢作川農業水利事業・矢作川第二農業水利事業・矢作川総合農業水利事業-
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戦後の国営事業






町人の進めた干拓



矢作新川開削図
衣浦沿岸の開田(干拓)図
 矢作新川が開削されると、入り江であった海岸部では、盛んに干拓が行われていきますが、この地の新田開発は、主に町人の手によって行われたことに、その特色があります。
 江戸の町人、伏見屋又兵衛(ふしみやまたべえ)の手による伏見屋新田、稲生平七郎(いのうへいしちろう)の平七新田、斉藤倭助(さいとうわすけ)の前浜新田、市川彦三郎(いちかわひこさぶろう)の市川新田、新実惣右衛門(にいみそううえもん)の新実新田、奥田正香らによる奥田新田、地名には、当時多大な資金を投資した町人らの名前が多く残っているのがわかります。
 江戸時代、尾張は国全体が御三家徳川家に支配されていたのに対し、三河では、大きな大名が配置されることがなく、様々な領主が存在し、交代していきました。三河における藩の数は、江戸時代を通じて18を数え、藩主の家系もたびたび変わり、それに加えて幕府領、旗本領も混在する三河の支配関係は、きわめて複雑でした。17世紀から18世紀にかけて、衣浦沿岸の開発が領主ではなく、商人を主体として進められたのには、このような事情が関係していたものと思われます。
 しかし、当然のことながら、もともと海抜ゼロメートル以下である干拓地は、河川沿岸の低地以上に水害や排水不良に苦しめられ、地主が転々とすることも少なくありませんでした。明治40年から干拓が始められた奥田新田の南側、三方を海に囲まれる南奥田新田は、暴風雨のたびに何度も堤防が壊され、多大な費用がかかったことから、お金が「チャラチャラ」と出て行く「チャランコ新田」とも呼ばれたほどです。用排水路の開削や築堤の技術の改良には、長い時間を要しました。

領主の石高一覧表
28,708石 本多伊勢守忠利(岡崎)
22,653石 松平主殿頭忠房(刈谷)
11,807石 本多下総守俊次(西尾)
5,261石 松平右衛門大夫正綱(旗本)
2,440石 本多美作守忠相(旗本)
1,019石 板倉内膳正重昌(深溝)
1,000石 本多主馬助俊昌(旗本)
1,000石 本多対馬守(丹後守重世か)(旗本)
1,000石 松平但馬守知乗(旗本)
712石 間宮左衛門信之(旗本)
593石 松平筑後守康盛(旗本)
462石 荒川右馬助安定(旗本)
265石 松平甚三郎(旗本か)
1,102石 神社領



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