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平安時代の「和名抄」(930年頃)という書物によれば、讃岐(香川)の国にはすでに22,000haに相当する水田があったらしい。これは現在の香川県の耕地面積の実に6割に相当する。


讃岐米。飯依比古の名のごとく香川は昔から米どころであった。

しかし、この国には致命的な欠陥があった。

水が少ないのである。


「讃岐には河原あっても河はなし」。平野が多い割に山が浅く急峻、もともと雨の少ない瀬戸内気候に加え、降った雨は即座に海に流れ出してしまう。


したがって、溜池の数、約16,000。密度では日本一である。


この溜池をめぐる水利慣行の複雑さ、厳しさは、余人の想像を超える。

池も「親池」、「子池」、「孫池」と緻密かつ広大なネットワークを形成し、各自の水田への配水時間は、線香の燃える長さで決めたという。

「水ブニ」、「香の水」、「ゆる抜き」、「加減抜き」、「走り水」、「かけ流し」、「切り落とし」、「寒の水」、「どびん水」、「水引きさん」、「証文水」・・・。おそらく地元以外では意味の通じないこうした水利用語の多さは、この地域の水に対するただならぬ桎梏[しっこく]を語っていよう。ともかく、水利をめぐる村々の紛争*1は、記述するのも嫌になるほど多い。


昭和48年の「高松砂漠」という言葉を記憶されている方も多かろう。

田も畑も枯れ果て、工場も長期間ストップした。

真夏の暑い盛りに、二週間以上も風呂に入れなかったという。


四国三郎吉野川は、高知、愛媛、徳島の3県を流れているが、香川県を通ってはいない。大河のない地域の宿命と言えなくもない。


01

讃岐が渇水の歴史だったとすれば、阿波、つまり徳島は洪水の歴史だったと言ってもいい。吉野川は、ほとんど毎年、台風が来るたびに氾濫し、大蛇のように荒れ狂った。


史上最大といわれる大洪水は慶応2年8月。

河口の徳島市から上流の池田町まで、吉野川沿いに拓けた狭長[きょうちょう]な平野は、すべて泥海と化してしまった。

死者37,000人。

家も、牛も馬も、収穫前の農産物も、すべて海へと流出した。

記録上、最古の洪水は仁和2年(886年)。

江戸時代、万治2年(1659年)から慶応2年(1868年)の約200年間に、阿波では約100回の洪水を記録している。2年に1回の割ということになる。

明治、大正、昭和も変わりはない。ダムや近代的な堤防工事が完成した近年でさえ、昭和50年、51年、平成2年、5年に、氾濫被害を出している。


”大きな果実”吉野川は、天下に名だたる暴れ川でもあったのである。


讃岐では、渇水をめぐる紛争の歴史。

逆に、山一つ越えた阿波では、洪水のための堤防づくりをめぐって、厳しい掟[おきて]や悲惨な闘い、あるいは義民達の多くの悲話が残されている。


したがって、この国は水田をあきらめ、藍作[あいさく]*2で大きな財をなした。

藍商人は阿波大尽などと呼ばれ、全国の豪商として贅[ぜい]の限りをつくしたという。


しかし、米を作れぬ農民の暮らしは哀しい。

米どころ香川に水はなく、有り余る水に苦しむ徳島では米がとれぬというこの矛盾。


阿波徳島では、田植え時、山一つ越えて讃岐の田に女性や農耕牛を貸し、米を得たりした。また、藍の収穫時には讃岐香川から出稼ぎの男が徳島にやってきた。

「讃岐男に阿波女」

ともに良く働き、相性が良いという意味の俚諺[りげん]であるが、阿波徳島の女性にとっては讃岐の米農家に嫁ぐことが夢だったのかも知れない。




※1 出水[ですい](湧き水)をめぐるユーモラスな紛争が残っている。

高松市近郊にある「鹿の井出水」という巨大な出水。湧き水も絶えないが、この池ざらいをめぐっては元禄年間から昭和まで付近の村々の争いは絶えたことがないという。大正13年の渇水では、さすがに出水周辺の村が干上がった。下流に位置する伏石村の農民は夜中神社に集結、手に鍬やモッコを持ち「鹿の井出水」の池ざらいを始めた。これを知った上流の多肥村も大挙して駆け付け、伏石村が掘った土砂を片っ端から出水に放り込む。放り込まれた土砂をまた伏石村がさらう。際限のない泥仕合が続いたという。以下はこれを目撃した古老の話。「これほどの紛争でありながら、双方取っ組み合いも罵声、雑言もなく、お互い手ぬぐいで頬かむりをしたまま、ただ黙々と投げ込む、さらうの応酬を延々と繰り返して、子供心にも誠に奇異に感じた」

(『香川用水』No100)。両村とも親戚関係が多かったためらしい。


※2 藍染めの藍。収穫は8月に終わり、台風の害はまぬがれる。また、氾濫する吉野川が畑に肥沃な土を運んでくれる。元禄時代、国産木綿の生産が始まり、藍染めの木綿衣料は爆発的にヒット。やがて藍は藍は阿波のほぼ独占となる。阿波商人は紀之国屋文左衛門の屋敷を買うなど多くの逸話を残している。表高25万石の阿波は、実質70万石ともいわれた。


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