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吉野川は長い。

水源地は高知の山の中。この地の雨量は際立って多い(下図参照)。


下流の徳島平野は晴れていても、他国に降った大雨が突然、怒濤[どとう]のように襲ってくる。

誰のせいでもない。しかし、遣[や]り切れぬ思いが歴史の底に澱[よど]む。

人は「土佐水」、または「阿呆水」などと呼んで天を呪うしかなかった


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一方、愛媛の東、伊予三島、川之江を中心とする宇摩地域も、香川同様、水がなかった。海岸から5kmと行かないうちに屏風のような山が切り立っている。川は細く、とても水田を潤すほどの水はない。


ところが、香川と違って、その同じ愛媛県内、山一つ向こうには吉野川の交流である銅山川が滔々[とうとう]と流れており、トンネルさえ掘れば、豊かな水が手にはいるのである。


江戸時代の初期、すでに土佐の家老野中兼山が吉野川支流で高知への分水を行っている。また、寛文10年(1670年)、関東では箱根用水という芦ノ湖からの大トンネル工事も完成している。「技術的に不可能ではない」。慶応3年、伊予三島代官松下節也が分水[ぶんすい]計画を立てる。


分水とは、水系を越えて他の地域に水を分けることをいう。

しかし、水は農民の命。あらゆる殖産の源であり、国の大財。

徳島側にとって、おいそれと承伏できる計画ではない。


銅山川分水は、徳島、愛媛の両県昭和33年に基本原則が合意されるまでに、実に100年という長い歳月と関係者の大変な苦労を要しているのである


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