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さて、時代は戦後の高度経済成長期を迎える。

農業近代化のための農地整備、農業用水の確保はもとより、発電、新産業都市、上水道や工業用水、そして道路網の整備・・・。日本中に、開発の槌音[つちおと]がブラスバンドのように響き渡った。


しかし、四国は遅れていた。

発電用のダム、そして工場を誘致するにも水がいる。

下流の徳島ですら農業用水もままならぬことは、すでに述べた。

吉野川総合開発は、“大きな果実”吉野川の水を、愛媛、高知、そして、香川にも分配しようというものであった。


通常の県をまたがる水系、例えば信濃川は、長野、新潟の両県を流れてくる。

上流の長野で信濃川の水をとっても、分水とは言わない(利水という)。

とった水は長野の幾万という田を潤し、再び信濃川に戻って、新潟平野を潤す。


しかし、支流銅山川の水を愛媛がとれば、水は瀬戸内海へ流れ出て、吉野川には戻らない。

高知で吉野川の水をとれば、水はそのまま土佐湾に流れ出てしまう。

まして流域とほとんど関係のない香川へ水を分ければ、その分、徳島に流下する水は減る。

ここに、吉野川総合開発の難題があった。


毎年、洪水被害を受けるのは徳島ひとり。「四人で分けるだけの分量」(前出「産業計画会議」のはしがきより)とは言っても、季節による激しい流量の差。普段は事欠く吉野川の水を持って行かれたのでは徳島も堪[たま]ったものではない。


利水と治水。水問題は古来より優れて政治的課題である*


昭和23年に始まる吉野川総合開発案は、農業振興、本四連絡橋、新産業都市、工場誘致など、時代の激しい脈動と、各県の浮沈をかけた駆引きに揺れに揺れた。

瀬戸内沿いの山陽道は日本の国土軸ともいわれた経済の大動脈。そのすぐ隣にありながら、四国は大きな果実を背中に背負い、政・財・官とも必死の努力を尽くして、なお身動きできない状況が長く続いた。

それほどに“水”の価値は大きいのである。


古事記に記された「身一つにして面四つあり」の謎は、吉野川に由来するのではなかろうか。




※群雄割拠し、それぞれの国の基礎を築いた戦国大名は、彼等自身、優れた農業土木技術者でもあった。武田信玄、加藤清正、豊臣秀吉、徳川家康・・・、彼等の利水・治水に関する業績は現在もなお生き続けている。


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