わけても、香川の期待は大きかった。
香川の年間平均降雨量は約1,100mm。日本有数の小雨地域である。
農業用水、都市用水、工業用水、いずれも全県的に不足していた。
しかし、愛媛の銅山川分水すら1世紀を要したことを思えば、解決の困難さは想像がつくであろう。
実際、筆舌に尽くし難い努力が展開された。
最終案は、下の図をご覧いただきたい。
簡単に言えば、高知の早明浦等に巨大なダムを建設し、洪水調節、発電、そして、香川、愛媛、高知の各県へ分水を図るというものである。
早明浦ダム近くで高知に分水、愛媛には支流銅山川から。そして、香川には池田ダムから長さ8kmに及ぶトンネルを掘り、導水する。
徳島は、後述する吉野川北岸用水を建設することで、昭和41年、ようやく吉野川総合開発案は決着をみることになった。
その後の四国の繁栄は、徳島の英断抜きには語れぬであろう。
高知や愛媛も、ダム建設による水没という大きな犠牲をともなったことを書き添えておく。
その後の四国の繁栄は、徳島の英断抜きには語れぬであろう。
高知や愛媛も、ダム建設による水没という大きな犠牲をともなったことを書き添えておく。
さて、分水の案は決まったが、香川にとってはそれからが大変な作業であった。
この地が溜池による緊密な水利秩序を形成していることは、すでに述べた。
新しい水は一滴たりとも無駄にはできない
3万haを超す広大な農地に、いかに水を均等に配分するか。
16,000の溜池ネットワークと細い筋のように縦に流れる無数の川を、一本の太い用水でちょうど魚の背骨のように横に結びつなぐ。
その幹支線水路は、実に105km-香川用水である。
平野といっても地形は起伏に富む。ダムや取水口の高さが1m変わっても、100kmを超す水路の計算、3万haの水配分はすべてイチからやり直しということになる。
水路とは、その地に“新たなる川”を築くことに他ならない。
当時の香川用水の関係者達は一丸[いちがん]となって、あらゆる水利施設を一つ一つ丹念に調べあげ、膨大なデータを日々積み上げて数字と格闘しながら、遂に、新たな川、そして古来より渇水地獄と言われ続けたこの地に、新たなる水利秩序を築き上げたのである。
余談ながら、農業土木の素晴らしさは、その地の歴史と悠久[ゆうきゅう]なら大地、自然の摂理[せつり]に、エンピツ一本で挑むところにある。
香川分水は、古事記以来の讃岐の重荷を取り除く、かの弘法大師の満濃池[まんのういけ]再築に匹敵する歴史的大事業だったのである。